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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

関係構築的関与への傾斜


 先週、東京都立北療育医療センターの虐待防止研修に講師として参加しました。同センターで3年前に開催した虐待防止研修以降の取り組みを踏まえた研修です(2020年10月26日ブログ参照)。

 このセンターは、児童福祉法と障害者総合支援法にもとづく障害児・者の支援事業所であるとともに、医療法に基づく病院として、肢体不自由や重症心身障害の児童・成人に対する療育事業と、一般医療機関では対応の困難な心身障害児・者の疾病の診療を行っています(https://www.fukushi.metro.tokyo.lg.jp/kitaryou/ryouiku/ryouiku.html)。

 施設従事者等による障害者虐待防止に係わる研修の実態は、施設・事業所によってピンキリです。

 2012年10月に障害者虐待防止法が施行されて以来、11年が経ちました。同法の施行当初から今日までの間に、それぞれの施設・事業所がみずからの特質を踏まえた虐待防止の取り組みをどれだけ進めてきたのかは、人権擁護と障害者権利条約への課題意識の水準を表わす指標の一つといっていい。

 虐待防止研修を実施したというアリバイづくりを目的とするところは、たいてい「アンガー・マネジメント研修」でお仕舞です。愛知県東郷町長がハラスメントを「お笑い感覚」でしたことを「反省」し、アンガー・マネジメント研修を予約したそうですが、アリバイづくり以上の意味が果たしてあるのでしょうか。

 実際に虐待の発生した施設・事業所が行政の指示によって開く虐待防止研修でも、形式的な研修に終始するところは珍しくありません。虐待防止に取り組む必要性への自覚と課題意識が希薄または欠如しているところで虐待の発生する確率は高いのですから、研修に後ろ向きであるのは当然なのかもしれません。

 そのような施設・事業所の現実がある中で、北療育医療センターはCovid-19禍に見舞われたこの3年間に、虐待防止に資するかなり集中的な取り組みを進めてきました(これらの取り組みは、いずれセンターが公表する予定だと伺いましたので、このブログでは差支えのない範囲の紹介にとどめておきます)。

 まず、重症心身障害のある利用者を中心とするセンターの営みの特質を反映させた虐待防止チェックリストを独自に作成しています。利用者への体罰、差別、人格無視、強要・制限、個人情報保護、虐待防止のための環境整備の6つの柱による37項目で構成されています。虐待や人権侵害につながりやすいさまざまなチャンネルに、必要十分な目配りをした点検が可能な内容となっています。

 さらに、このチェックリストは、それぞれの職員が自己点検する(自己評価)とともに、周囲の他の職員を点検する(院内評価)形式を備えています。チェックリストの集計結果で興味深いのは、どの項目も自己評価より周囲の職員への評価(院内評価)の方に厳しい結果が出てくるところです。

 たとえば、「成人の利用者を子ども扱いするなど、その人の年齢にふさわしくない扱い方をしている」という項目に対して、「していない」とする自己評価は約95%であるのに対し、他の職員への評価では約85%と10%ほどの差が表れるのです。

 簡単に言えば、「自分はしていないが、他の職員はそのような行為をしている」という評価ですから、各職員が自分の抱える問題でありながら自覚しきれていないところのあることを示しています。

 そこで、このような自己評価と他の職員への評価に乖離の大きい項目は、センターが組織的に取り組むべき虐待防止の課題であると捉えます。

 このようにして、同センターは虐待防止委員会を中心に、個々の職員の自己点検だけでなく、他者からの指摘や上司との相談を気軽に行えるようにしていく改善を重ねる取り組みを進めてきました。

 今回、同センターから虐待防止研修の依頼を受けた時、2020年~23年前期までの間の取り組みを整理した資料を戴きました。その成果は、一つの病院・施設・事業所における虐待防止の取り組みとしては、ほぼ臨界点に達する努力の跡がうかがえます。

 したがって、同センターの虐待防止の取り組みはすでに高い水準に達しているのですが、それでも、先に述べた自己評価と院内評価に乖離のある項目が10ほどある点に、虐待発生の芽が残り続けているという課題意識があると伺いました。

 この間の取り組みを踏まえ、この10項目の表わす問題は、職員の利用者に対する関係構築的関与への傾斜であると私は分析しました。

 職員と利用者との対等・平等な関係性が未熟で不安定な一方で、職員の力の優位性が利用者への「子ども扱い」「好悪の感情の直接的表現」「威圧的な行動」となって現れる傾きをどうしても持ち続けているという事実です。

 障害者権利条約は、市民生活のあらゆる場面の関係性(行政職員の関係、支援者との関係、医療者との関係、職場の関係、家族や暮らしの場における親密圏の関係、資産管理や市場における契約上の関係など)の基軸に、例外なく、市民(子どもの場合は「小さな市民」)同士の対等・平等性を据えることに原則を置いています。

 ところが、このセンターの利用者は重症心身障害のある人たちですから、権利を行使する市民としてのリアリティが乏しくなりがちで、職員主導の支援で様々なことを「押し切って」しまいやすい日常のあるところに、不正常な支援や虐待発生の芽を残しているとみることができます。

 利用者に対する支援者は、医療や福祉の専門性に裏打ちされた支援の主導性をもつのは当然で、支援者と利用者の関係性は非対称です。またコミュニケーションや思考の発達のレベルでみれば両者の格差は歴然としていますから、暮らしを営む親密圏における職員と利用者の関係性も非対称です。

 これらの非対称性が支援の中で、「子ども扱い」(未自立な子どもとしての利用者に対する自立した大人である職員の関与)や「主従関係」(「支援者の判断に従いなさい」等の「支配-従属関係」)に転じる傾きを持つのは、利用者に係わる「市民としての支援課題」を具体化できないまま、「個人として尊重されるべき」だという理念に抽象化してしまうからです。

 たとえば、「治療過程への参画」「病棟生活への参画」という観点から支援の日常を捉え返して改善すべき支援の課題はないのかの点検や、「小学校に上がる」「学校を卒業する」というライフステージの節目に注目した敬称と関係性の組み替えを進めるなどの必要があるのではないかと提起しました。

 帰り際に、同センターの医師から有意義なお話を伺いました。今、重症心身障害学会や医学界の中で、このセンターの利用者のような人たちの寿命が延びてきたため、従来は小児科の専門医がずっと診続けていたところを、成人を対象とする内科や外科の先生にバトルタッチする必要性が大きくなってきたそうです。

 重症心身障害のある人たちは医療的ケアがとても重要ですから、小児科から成人の診療科目への転換点も、敬称と支援者との関係性の組み替えを進める契機になると考えていると言うことでした。

 わが国の近代化における国民は戦前まで「臣民」であり、市民としての権利性が剥奪されてきた経緯がある分、市民性(シティズンシップ)についてのリアリティを持ち切れない弱さを私たちは共有しているように思います。その上、日本はイギリスのような「シティズンシップ教育」を実施している訳でもありません。

 このような中でさらに、市井にある多様な障害者差別が、戦前の徴兵制度をテコにシステム化され、その最下位に重症心身障害を位置づけてきたのです。

 したがって、重い障害のある人たちの市民性を守り発展させる支援の課題と方法については、今こそ真正面から支援者が組織的に受けとめる必要があるでしょう。すべての支援者は、障害のある人たちが公共圏に羽ばたくための足掛かりだからです。

 ここで、私たちは市民性を培い、市民としての権利行使を実現するための多彩な支援課題を明らかにするとともに、新たな方法論的開発が必要です。この点で、たとえば現行の意思決定支援ガイドラインは、無力です。

 AAC(拡張代替コミュニケーション)について具体的には何も触れておらず、ヨーロッパの意思決定支援の水準との対比で、わが国には半世紀近くの遅れのあることを文書で明らかにしているようなものです。

 それぞれの現場から、支援に係わる新たな方法論的開拓を含めて、障害のある人たちと市民として共に歩むことのできる支援者であることが求められています。

東京宝塚劇場

 宝塚歌劇団のハラスメントによる自殺問題が大きく取り上げらました。劇団理事会の記者会見は、まったくひどい内容でした。ジャニーズ事務所の会見が世俗的な欲の塊だったとすれば、宝塚の会見は恰も「宝塚大本営発表」です。最後まで上から目線のまま、戦果を粉飾して発表しているような感じがしました。宝塚の看板である「清く、正しく、美しく」は、「酷く、あくどく、見苦しく」に書き換えた方がいい。