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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

埼玉県虐待禁止条例の正体


 埼玉県議会では、埼玉県虐待禁止条例改正案の取り下げを承認するドタバタ劇がありました。

 改正案の論点は、養護者に対する「子ども放置禁止」。罰則はないものの、小学校3年生以下の子どもの「放置」を禁止し、同4~6年生については努力義務としていました。

 改正案第6条2は「児童を現に養護する者は、当該児童を住居その他の場所に残したまま外出することその他の放置をしてはならない」としますが、何が具体的な放置に当たるのかについては規定していません。

 そこで、この改正案を提出した自民党県議団は、埼玉県議会の審議の中で、この「放置」は従来の虐待防止法上の「ネグレクト」の範囲を大きく広げる内容であることを説明したのです。

 その説明によると、「放置」とは次のようです。
・留守番させる(100m先の家に回覧板を届けるための外出を含む)
・子どもだけで公園で遊ばせる、登下校させる、おつかいに行かせる
・18歳未満のきょうだいに子どもを預けて出かける
・車内に子どもを残して買い物に行く

 このような「放置」を虐待だとすると、ほとんどの家庭の子育てが成り立たなくなってしまいます。そこで、多くの親やPTA等の団体が条例案に反対する声を上げ、改正案の撤回に追い込まれてしまったのです。以上が、条例改正案「事故の顛末」。

 この条例改正案については、子どもの権利や虐待防止に係わる弁護士や研究者からも的を射た多くの批判的見解が寄せられ、改正案の撤回に多くの親はホッと胸を撫で下ろしたでしょう。

 何が子ども虐待に該当するのかは(川崎二三彦著『児童虐待』、46-53頁、岩波新書、2006年)、加害者の動機・行為の質や意図によるものではなく、「子どもが安全ではない」という状況と、「あるコミュニティの基準の中で最低限度に要求される育児行為の範囲を逸脱したもの」という二つの見地から判断されるべきものです。

 そこで、川崎さんは、3歳の女の子が主人公の絵本『はじめてのおるすばん』(しみず みちお作、山本まつ子絵、岩崎書店、1972年)を例にあげて、次のように指摘します。

 日本では子どもに留守番させて出かけざるを得ない家庭が多く、これを虐待と決めつけてしまうと子育てができなくなってしまう。しかし、カナダは12歳未満の子どもだけで留守番をさせて放置することを法律で禁止しており、この絵本は発行すらできません、と。

 つまり、埼玉県虐待禁止条例改正案は、日本の育児の文化や実態を踏まえることなく、いきなりカナダのコミュニティの子育て水準に由来する虐待規定を持ち込んで、「先進的な条例」とでも言いたかったのでしょうか。

 しかし、埼玉県虐待禁止条例について、私は今回の改正案に関係なく、現行条例そのものに重大な問題があると考えてきました。この条例について検討したのは、数年前に埼玉県障害者施策推進協議会の会長をしていたときのことです。

 まず、引っかかるのは、「虐待禁止」という規定です。

 わが国の虐待防止法(児童・高齢者・障害者の3本立て)について、実は、法制化そのものに反対の声がありました。この点は、報道されたことはなく、研究者の注目も薄いようです。

 養護者による虐待の多くは、養護者が孤立や困難に追い込まれた挙句の果てに発生します。そこで、養護者の孤立や困難を軽減・緩和するための、多様な支援策の拡充を棚に上げたまま、「養護者の虐待」だけを取り上げるとすれば、間尺がまったく合いません。

 そこで、養護者支援を拡充する施策を具体的に明らかにすることなく、虐待防止法を制定することには根強い反対がありました。

 議員立法による体裁の妥協点は、「虐待防止」というキーワードを用いることによって、虐待対応とともに「虐待発生の防止に資する養護者支援」を施策の課題に位置づけるものとなりました。「禁止法」とせず「防止法」としたことによって何とか帳尻を合わせ、「一件落着」させた塩梅です。

 子どもの虐待防止を例に養護者支援を考えると、家族単位の生活を支える総合的な内容にならざるを得ない。家族単位の所得保障や養護者の就労保障・休息保障を土台に、多彩な子育て支援策を拡充することです。これが本当の「異次元の子育て支援策」であり、このような支援策と一体のものとして「虐待防止」の取り組みを進めなければならない。

 逆に言うと、養護者を支援する施策を拡充させることなく、虐待対応の独り歩きを進めると、養護者と児童等をさらに追い込んでしまうリスクを高めます。だから、養護者を抑圧することなく虐待防止を進めることが肝心であり、そのような支援と施策の展開には、支援者だけでなく、政策当局と議会が子育ての現実に不断の注意を払う必要があります。

 ここで、「虐待禁止条例」となると事情は異なります。「虐待禁止」は、虐待をする養護者に落ち度があり、それを改めるべきだという強迫性を宿しています。また、虐待を条例で「禁止」すれば、虐待の発生が減少に向かうという発想があるとすれば、子育ての実態と虐待発生についての無知蒙昧を指摘しなければなりません。

 埼玉県の条例改正案にある「放置禁止」は、多くの共働き家庭や単親家庭の子育ての実態を「上から目線で」頭ごなしに全面否定する内容です。改正案は、保育所の待機児童の解消に触れる一方で、学童保育その他の施策拡充については何も規定していません。

 つまり、今回の改正案の問題である「上から目線の虐待禁止」は、現行の埼玉県虐待禁止条例そのものの持つ本質に由来するものです。養護者と児童等の支援策を拡充することなく、虐待禁止を養護者の責任に負わせるところに条例そのものの問題があるのです。

 次に、この条例における「養護者」の規定が曖昧な問題です。この点は、子ども・高齢者・障害者の虐待防止法において指摘されてきた問題です。この条例は、児童から高齢者を一括りにして「養護者」という用語を使うため、養護者規定の曖昧さがさらに上塗りされています。

 滋賀サングループ事件の弁護団長を務めた田中幹夫弁護士にこの点を尋ねたところ、「児童等の養護者」とは、「事実上の面倒をみているとしても、例えば近所のおばさんは含まれないと解されており、いわゆるケースバイケースで考えるという、いい加減な規定になっている」問題が指摘され続けてきたといいます。

 「現に養護している者」で一括することは、「かつて養護者であった者が介護や養護を放棄した場合を除くことになる一方で、同居している者が諸条件を考慮せずに養護者に括られてしまう」問題も出来するのです。

 この条例は、児童から障害者・高齢者を「一本化」したと宣伝しています。しかし、「養護者」について、未成年の子に対する「親権者」と、成年者に対する「民法上の扶養義務者」を区別しません。そうして、一括りにされた「養護者」に対する虐待禁止の義務規定だけが目立ちます。

 田中弁護士は、「既存の虐待防止法で虐待対応件数の増加が止まらないというのであれば、これまでに各虐待防止法で問題にされてきた点を条例が丁寧に追って具体化できたはず」なのに、「第2条6号で医療機関等を規定したことで自己満足している」のか、この条例が「埼玉県議会で十分な議論もなく全会一致で成立したとは驚きました」と言います。

 このようにみてくると、埼玉県虐待禁止条例は、虐待対応件数の増加基調が続く現実に対応する具体的な虐待防止策を何一つ規定していないことが分かります。この条例は、虐待を防止することに本当の狙いがあるとはいえません。

 この条例は、家族と親の役割に係わる復古主義的な枠づけを強めようとする政策意図に正体があるのです。

 それは、解散命令請求を東京地裁に出されたばかりの旧統一教会が、全国各地の自治体で進めてきた「家庭教育支援条例」と軌を一にして、憲法改正草案第24条につながる「地ならし」としての性格を本体とする「虐待禁止条例」です。

 「昔に比べ、現代の家族は絆が希薄だ」、「核家族や離婚した世帯が増え、子どもの教育がおろそかになっている」、「最近の親は、なんでも学校任せ。しつけは、家庭でするべきだ」等、昨今の家族や家庭について聞かれるこういった嘆きをテコに、伝統的な日本の家族像を取り戻そうとする動きの一助として、「虐待禁止」がダシに使われているのです(2017年11月27日ブログ参照)。

川越祭りで発生する大渋滞

 川越祭りは、山車を出す直接的な祭りの関係者や見物客を当て込む飲食店などを除くと、地域住民によってはまことに悩ましい日々です。私は、毎年東京に出る用事と川越祭りが重なるため、川越駅や本川越駅に出る足を剥奪されます。中心部は自転車を押して歩くよう警備員に指示されるため、これらの駅に自転車でたどり着くこともできません。

 バスも自転車も相当の遠回りを強いられ、自動車・自転車が通行止めとなる周辺の道路は、通り抜けと迷い込みの車で大渋滞が発生します。狭い市道で250mほどの渋滞が発生していることも珍しくありません。

 土日も働く市民の足が、百万灯祭、ハーフマラソン、川越祭り等のたびに剥奪されるのです。これらの行事がもたらす「光と影」を市と市議会は正視し、足の消失する市民に対しては、代替的な交通手段をがきちんと手当てするか、タクシー代の公的補助等によって交通保障するのが当然ではないでしょうか。