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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

人権侵害の無自覚を生み続ける構造


 障害者権利条約の禁止する代行意思決定は、わが国において未だに蔓延しています(9月25日ブログ参照)。

 この代行意思決定は、さまざまな支援サービスにビルト・インしている点で深刻です。医療保護入院、成年後見における後見類型、サービス利用契約と個別支援計画の署名・捺印など、入院や福祉サービス利用のほぼすべてに及んでいます。

 このような事態を放置したままで、障害のある人の「自立した地域生活」を実現するというのはただの欺瞞です。

 これらの「支援サービス」は、自治体職員、ソーシャルワーカー、相談支援専門員、施設職員などの職業的支援者に親・家族を含めた人たちが関与しています。これらの職業的支援者や家族(とくに障害のある成年の家族)に、代行意思決定が人権侵害行為であることへの自覚が果たしてあるのでしょうか。

 障害のある人の自身に係わるすべての事柄について意思決定を行う権利があるにも拘らず、支援する側の力の優位性をテコに、障害のある人に「何を与え、何を与えないか」を支援者・家族が決定してしまいます。

 このような「支援」は、パターナリズム以外の何物でもありません。

 ケアとは、「(ケアする)対象が本来持っている権利ゆえに私が尊重する確かな存在として」相手を感じ取りつつ、「誠実に相手に応答する」ことです(メイヤロフ著『ケアの本質―生きることの意味』18-19頁、ゆみる出版、1987年)。

 したがって、「障害のある人が本来持っている権利」を確かに受けとめて「誠実に相手に応答する」ケアをしているのであれば、日本が障害者権利条約の締約国となった2014年以降も、支援の中で、人権侵害行為である代行意思決定を延々と継続する事態はあり得ないはずです。

 つまり、意思決定支援は、多くの支援の範疇からはずされているのです。国連・障害者権利委員会が勧告した通り、制度と実践の両面において、わが国には障害者権利条約違反が随所に、しつこくあるといっていい。

 たとえば、知的障害のある人の施設入所に係わって、障害のある人の意思を踏みにじる人権侵害行為を私はこれまで山のように知る機会がありました。

 まず、親・家族の方から耳にタコができるほど聞いた、とてもポピュラーな事例です。「入所から1年程度、親・家族の方は面会に来ないでください。これが施設入所の条件です」。

 施設入所に係わる障害のある本人への意思決定支援はありませんから、施設と家族は権利条約第19条違反の「共犯」です。施設が突きつける条件の提示は、極めつきの横柄なパターナリズムです。しかも、契約書にも重要事項説明書にもこの横柄な条件は一言も書いていません。

 障害者支援施設の暮らしにそれぞれの人にふさわしい親密圏を築いているのであれば、このような傲慢な台詞が施設から出てくるはずはありません。

 たとえば、障害のある子どもが保育所に入るときには、しばらくの間は「お試し期間」として、親が保育所に一緒に入りながら、子ども自身の力で保育所の交わりに入るところまでを親と保育士が協働して支えます。

 保育所のこのような取り組みが当たり前なのは、保育所が障害のある子どもたちにとって居たい場所であり、朗らかな慈しみ合いにあふれた関係性(親密圏)に彩られるところだからです。

 それに対して、施設入所は「本人の気に入らない人間関係や食事であっても、入浴が週に2~3回でも、ここは家ではないのだから、ここの暮らしに我慢して慣れてもらう」という抑圧が起点に据えられています。

 次に、施設の土日は職員の手が薄くなるので、「土日には帰省してもらいます」と言い放つ施設があります。それは、親・家族との関係性を保つところに帰省の意図があるのではなく、あくまでも施設側の都合の押しつけです。

 親と本人がまだ若いうちは、「(追い出されると困るので)施設に協力せざるを得ない」という気持ちから、「土日帰省の協力」をします。

 しかし、親が齢を重ね、本人も加齢に伴う重度化や二次障害の拡大が目立つようになり、「土日帰省」に無理が出てくると、このような利用者に対してあれこれ難癖をつけて追い出そうとするひどい施設まであります。

 もちろん、施設側の表向きの理由は、指定施設の管理基準(障害者総合支援法に基づく指定障害者支援施設の人員、設備及び運営に関する基準)第11条辺りを根拠(利用者の安全を担保できないなど)にする等して、形式要件を整えてきます。あくどい用意周到さにだけは、知恵がよく回ります。

 いずれの事例も、施設側の都合を優先できる関係性を維持するために、代行意思決定を押しつけているのです。このような施設に、障害のある人本来の権利を尊重して、意思決定支援による自由の拡大(エンパワメント)を進めていくことを期待するのは幻想です。

 このようにみてくると、施設や家族での暮らしには、次のように対照的な世界を描くことができます。

 一つは、メイヤロフの指摘する本来のケアが行われている施設や家族であり、意思決定支援があり、日常生活世界は親密圏に彩られています。

 もう一つは、「何を与え、何を与えないか」の選択と決定をする権限は他者(施設職員、家族等)にあり、他者の持つ優越性を前提に、意思決定支援を脇に追いやったまま、劣位に置かれた障害のある人に保護を与えるパターナリズムの世界です。

 このパターナリズムには、「水戸黄門型」もあれば、「悪代官型」もありますが、「前者が良性」で「後者が悪性」というものではありません。いずれも障害のある人の持つ権利を起点に据えておらず、誠実に相手に応答するケアをしているのではないからです。両者ともに、明白な障害者権利条約違反です。

 わが国におけるパターナリズムは、天皇が臣民に与える「厚生」と同様に、施設(理事長・施設長を頂点とする職員組織)が障害のある人に与える「厚生」です。

 本来のケアが行われる親密圏は、障害のある人の生活(生/生命/性)をめぐる自由が拡充(エンパワメント)されるのに対し、パターナリズムに覆われた日常生活世界は、障害のある人の権利に制約の縄をかけて自由を束縛する「制縛圏」となります。

 「水戸黄門型の制縛圏」は、支援者は「相手のためを思った支援」をしているつもりですから、自分たちの人権侵害に気づかない陥穽をもちます。

 利用者の障害の程度が重く、生理的な快を中心に、食事・睡眠・入浴・排泄の支援に行き届いていれば、パターナリズムの馬脚は現れず、障害のある人たちからのプロテストも脆弱です。そして、意思決定支援の必要性を自覚できないまま、日常的な人権侵害行為を続けます。

 「悪代官型の制縛圏」は、障害のある人の自由を束縛する日常が基本形です。ここには、支援者を優位とする「支配従属関係」があり、この関係性を不断に維持・再生産するための装置が必要不可欠となります。

 この支配従属関係の維持・再生産装置は、障害のある人に対する組織的な抑圧です。施設側の用意する枠を超えたニーズは、抑圧しなければならない。この抑圧の多様な手立ての中に、ネグレクトや暴力・身体拘束等の虐待の発生する必然性があります。

 障害者虐待防止法が規定する5つの虐待(身体的虐待、ネグレクト、心理的虐待、性的虐待、経済的虐待)ついて、虐待発生を取り除く対応をすれば、人権が回復する(擁護される)という単純な理解があるかも知れません。

 しかし、虐待の発生を施設から除去することができれば、本来のケアに接近するようになるという一般的な認識は誤りであり、幻想です。

 パターナリズムを基本形とする制縛圏にあって、支援者優位の「支配従属関係」を利用者との間に構築し、維持・再生産する手立てとしての、虐待です。

 施設内で発生する虐待は、単発的なものではなく、パターナリズムにもとづく「支配従属関係」の維持・再生産に係わる、持続的で「関係構築的な手立て」と捉える観点への転換が必要なのではないでしょうか。

 つまり、多くの障害者支援施設には、もともと親密圏はないのです。制縛圏の下で、「水戸黄門型」と「悪代官型」に分かれるのがせいぜいの違いです。

 「水戸黄門型」のパターナリズムでも、支援者優位の「支配従属関係」は構築されていますから、何かを契機(「いい施設)を作ってきた人のリタイヤ、私欲をひた隠しにしてきた人物の理事長や施設長への就任による私物化、一部の親と理事長との談合など)として、「悪代官型」のパターナリズムにやすやすと転じます。このような事例を私はたくさんみてきました。

 パターナリズムに彩られる施設では、単発的な虐待を取り除くことに成功したとしても、支援者優位の支配従属関係の構築に向けた抑圧がはじまり、いずれは虐待防止法上の虐待が発生するのです。

 このような虐待サイクルを断ち切るための虐待対応は、パターナリズムに覆われる組織的な問題を明らかにして、組織の抜本的な改善に通じるアプローチが求められます。単発的に発生した虐待を除去するだけの対応に終始し、組織の構造的な問題に分け入らないのであれば、施設従事者等による虐待への対応は「モグラ叩き」で終わります。

 障害者虐待防止法の施行からこの10月で11年が経過しました。11年に及ぶ虐待防止対応を続けてきた一方で、意思決定支援がまったく進展しないからくりは、障害福祉業界の土台を構成する岩盤のようなパターナリズムです。意思決定支援の拡充がない限り、虐待発生が止まることはありません。障害のある人の人権を起点に据えるケアとは何かを、改めて正視する必要があります。

NHKの旧ロゴ

 マスコミ自身のジャニーズ問題に係る検証を報道する番組が日テレ、TBS、NHK等で相次ぎました。ジャーナリストの江川紹子さんが指摘するように、「なんかしっくりこない」。

 各テレビ局の報道・編成・制作部門のOBを含む社員の証言から「事務所からの圧力があった」とか「文春判決の当時、男性の性被害が人権問題だと気づけなかった」などと「反省」を報じます。江川さんは、カソリック神父による性加害の問題を報じながら、ジャニーズでは報じない事実は間尺に合わないと言います。

 これらの検証で共通に欠落しているのは、テレビ局の組織的構造的問題についてまったく触れない点です。登場するのは個々の社員・OBの声だけで、それらをざっとまとめて「反省」するだけです。これは、施設従事者等による虐待の発生した施設長の、ろくでもない弁解と一緒。

 報道に携わる物であれば、報道に係わる倫理綱領の中で人権の尊重に重点があることくらいは常識です。それぞれのテレビ局の報道局長までもが性加害という重大な人権侵害事案に「気づけなかった」という子どもじみた言い訳をするのですか。テレビ局という大きな組織の中には、コンプライアンス担当の役員もいますから、人権尊重に資する報道にすべての従業員を方向付ける社会的責任もあったはずです。

 とりわけ、NHKは国民から受信料を徴収して成り立つ公共放送です。公共放送の組織的な機能不全がどうして蔓延し継続してきたのかについての、重大な説明責任があります。公共放送としての立ち位置が定まらないのであれば、不安定な卵にNHKの三文字が囲われた旧ロゴを復活させた方がいい。