宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
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そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
障害のある人の性と親密圏
障害のある人への支援に係わって「性」の問われる課題があります。
もっともポピュラーなテーマの一つは、「同性介助」です。たとえば、障害のある女性の排泄や入浴に係わる介助を男性が行うことにつきまとうデメリットは、これまでしばしば指摘されてきました。
この介助は生殖器を含む身体接触を伴うため、異性に対してニーズを伝えることが憚られるだけでなく、性的恥ずかしめを強いられますから、性的虐待です。支援現場の職員の人手不足や男女構成の偏りが、利用者の男女構成にふさわしい同性介助を阻んでいる現実があるとしても、異性介助は性的虐待のそしりを免れない重大な問題です。
介助をめぐる性への配慮について、男女という性の二元論と異性愛主義の枠組に閉じることも性的虐待です。LGBTQに係わって、それぞれの人の性的配慮の必要に応じたケアの実施が求められます。この点への配慮は、とても遅れているのではないかと心配です。
もう一つは、障害のある人の当事者運動の中で明らかにしてきた性的権利要求とケアの問題です。議論のバリエーションにはかなり幅が認められます。
性的ニーズは、食欲や睡眠欲と並ぶ人間の基本的欲求の一つであるから、ケアワークの中に性的ケアを位置づけるべきだという議論もあれば、外部のセックスワークとの連携を図るべきだという議論もあります。
「人権としての性」を支援課題の中で正視することはとても重要です。小賀久さんの著書である『幸せつむぐ障がい者支援―デンマークの生活支援に学ぶ』(2020年、法律文化社)の「第6章 人権としての性と平等」(同書、99‐117頁)は、国家権力による性的抑圧からの解放と親密圏を育む「生む性」のケアのあり方が詳述されています。
わが国では、肢体不自由のある当事者運動の中で、性的サービスの体験記が広く公表されるようになり、セックス・ワーカーの側からも障害のある人への性的サービスの提供について肯定的な見解が出るようになってきました。
そこで、売買春を頭ごなしに批判する道学者は別にして、障害当事者とセックス・ワーカーが明らかにしてきた厳然たる事実を受けとめた上で、私たちは改めて「人権としての性」をめぐる支援課題を考えるべきです。
人間にとって「性別の根源性は、人間の他者認識において、男か女かの性別認知が第一義的で、他の属性は二義的」であり、「深くその人を規定し、パーソナリティーの根幹に食い込んでもいる」のです(金井淑子編『岩波応用倫理学講義5 性/愛』、3頁、2004年、岩波書店)。
したがって、「性」は、障害のあるなしに拘わらず、生活と人間性にかかわるケアの課題から片時として切り離すことのできない営みを求めます。「性」は、同性介助の課題にとどまることなく、障害のある人それぞれにふさわしい親密圏の形成や生き方の選択を含む多様な意思決定の支援に直結しているのです。
障害のある人の「性的ニーズ」については、性的サービスの利用体験記を公表して性的権利要求の旗を掲げる障害のある人とセックス・ワーカーのあり方や是非に係わる議論に注目が集まりがちだったように思います。
しかし、このように性的要求をカミング・アウトするのが「性」をめぐる障害のある人のマジョリティではありません。障害のある人の性に関する抑圧は、優生保護法にもとづく国家権力による抑圧から、家族や支援現場における「寝た子を起こさない」抑圧と性的虐待まで実に多様です。
それぞれの人に多様な課題があるなかでも、サイレント・マジョリティの一つに「無性の人間として意識的に生きようとする」一群の人たちのいることは決して看過できません。
わが国の偏狭な性教育に象徴される生殖能力に力点を置く性の捉え方が、障害のある人を「性的主体としての資格がない」という断念から、「無性」の生き方を強いられるところまで追い込んでいきます。
脊椎損傷で車いすを利用する男性に、恋愛感情を抱く女性がアプローチしたとしても、「自分には女性とつき合う資格はない」と決意している男性は、自分もつき合いたいと思っているにも拘らず、頑なにつき合いを拒むことがあります。
つき合ったところで、相手を満たすことができないかも知れない、子どもをつくることの難しさが結婚への展望をふさぐかもしれない、これらの現実に相手が直面した時には相手も傷つくだろうし自分も耐えられない。そんなことなら「無性」の生き方に割り切った方がいいかも知れない、と。
車いすを利用する女性で一級建築士の資格を持つ人が、建設会社に就職したケースです。この女性は、就職当初、恋愛への抱負を持っていました。
新入社員の歓迎会があり、宴の半ばまでは入れ代わり立ち代わり同僚や先輩の人たちが挨拶を兼ねてお酌に来ます。時間が経つにつれて、若い社員たちは気の向く異性のところににじり寄ってはアプローチの機会を探っている。ところが、自分のところに若い男性社員はとんと来ない。
この女性は、一級建築士としての腕の高さを見込まれて就職したにもかかわらず、しばらくすると退社し、ひきこもりの生活に陥りました。会社の人たちがこの女性に「いじめ」をしたのではなく、自分が性的主体として受けとめられない現実に絶望したのです。
これらの人たちは、性的権利を要求するのではなく、「絶恋」や「排恋」の世界に追い込まれることによって、親密圏の形成を阻まれ、孤立のリスクを高めています。
障害のある人の「人権としての性」とは、「人権としての親密圏」と言い換えることができます。性的快楽の課題を含みますが、性的快楽に限定される課題ではありません。
親密圏(日常生活世界における親密な関係性)とは、「具体的な他者の生/生命/性―特にその自由―に対する関心/配慮/関与/援助を媒体とする、ある程度持続的な関係性」(前掲書、161頁)のことです。
つまり、親密圏とは、「具体的な生/生命/性」への尊重とケアを通じて、障害のある人の自由を拡大していく(エンパワメント)営みが継続的に行われる慈しみにあふれる関係性のことです。したがって、親密圏においては、障害のある人の自由―意思決定(選択と自己決定)支援の保障が必要不可欠です。
代行意思決定や代行参画が行われているところに形成される「疑似的親密圏」はパターナリズムに由来します。このような「似非親密圏」は、力による支配構造を組織に溜め込むことによって、いつか虐待の発生するような「制縛圏」(制限を加えて自由を束縛する関係性)に転じます。この問題は、次回のブログで。
秋の風物詩ですが…
稲刈を終えた田圃をトラクターが耕すと、カエルや昆虫が土から掘り出されます。このことをよく知っているダイサギたちは、ご相伴に与ろうとトラクターの後を追いかけます。時節柄、トラクターがジャニーズ事務所で、後ろを追随するサギたちがテレビ局に見えてきました。トラクターにもっともにじり寄っているサギの名前はNHK。名実ともに公共放送であるBBCに対して、公共放送を詐称するサギのNHK。
新聞社や民放各局に対しては、福島第一原発の重大事故の際に、電力会社からの広告収入を当て込む経営の観点から、原発のリスクに迫る報道をしてこなかった問題のあることを指摘されたのではありませんか。
国民の知る権利に奉仕すべき報道機関が、報道すべきことを報道せず、視聴率とお金儲けに走っている正体をジャニーズ事務所問題は明らかにしました。NHKか民放かに拘わらず、テレビ局は報道機関ではなく娯楽興行会社であるところに本質があります。
イギリスのBBCが報道した重大な性犯罪事件について、日本のメディアはどうして報道してこなかったのかについての組織的で構造的な問題を、テレビ局や新聞社が突き詰めて明らかにしようとしないことに幻滅します。通り一遍の「反省文」じみた声明や見解の表明で報道機関としての責任を果たしたつもりなのでしょうか。このトラクターが国家権力で、この後を忖度しながら追随する報道機関が、報道すべきことを報道してこなかった事案が山のようにあるのは間違いないと疑うようになりました。