宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
延々と続く代行意思決定
障害者権利条約は、障害のある市民の全面的な権利の保障を定めており、代行意思決定を認めていません。強制入院の仕組みは、悪しき代行意思決定の権化です。
しかし、わが国では「支援の起点」に今日なお代行意思決定が当たり前のように蔓延っています。この人権侵害システムは、ソーシャルワーカー、施設職員、看護師、医師等、親・家族を含めて成立しています。まるで無法地帯。
先日、ひきこもりの人に対する強制入院は違法であり、精神科病院に賠償命令を出す東京高裁の判決が出ました(https://www.tokyo-np.co.jp/article/278929)。
この裁判は、ひきこもりの人の「自立支援」をうたう民間事業者の「引き出し屋」が、無理やり本人を連れ出して精神科病院に強制入院させた事案に対して、被害者本人が損害賠償を求めたものでした。
「引き出し屋」については、一部の精神科病院との「不透明な関係」がつねづね噂されてきました。ひきこもりケースだけでなく、何らかの精神疾患のある人に対しても、「引き出し屋」を使った強制入院が今日なお行われており、長期にわたる「闇の歴史」があるようです。
このような被害者を私も複数人知っていますし、本人の意思を無視して力づくで入院させるケースは、全国各地で確認されています。今回の判決にかかわる被害者は50日間の強制入院でしたが、もっと入院期間の長いケースもざらにあるでしょう。
私の知っている最悪のケースでは、精神疾患が確認されないにも拘らず「薬漬け」にして、「患者さん」に仕立て上げられていました。
「ひきこもり」ケースの「引き出し屋」まがいの人権侵害については、戸塚ヨットスクール事件から、アイ・メンタルスクール事件、不動塾事件、あけぼのばし自立研修センター事件、ワンステップスクール湘南校事案等、1980年代初頭から今日まで連綿と続いています。
これらは強制入院ではなく、「ひきこもりの自立スクール」を装う「引き出し屋」が、家族から多額の費用を取り立てた上で、本人を強制連行し、監禁と暴力的処遇を行います。これらの「自立スクール」の首謀者の中には、ひきこもり問題の「救世主」であるようにマスコミが光を当てて「寵児」扱いした人物さえいます。テレビ局の堕落した構造的問題は、ジャニーズの性犯罪事案だけではないのです。
ひきこもり問題に悩む多くの家族がいる一方で、制度的な地域支援システムは脆弱です。ここに、悪辣なビジネスがつけ込みます。
しかし、このビジネスが成立する最も深刻な問題は、「親権者」または「保護者」が、ひきこもりの人の強制連行と監禁にかかわる同意契約を業者と結んでいることです。
統合失調症の発症時に強制入院させられた人は、さいたま市障害者権利擁護委員会で、「障害のある人の人権を最初に侵害するのは家族だ」と訴えたことがありました。
「医療保護入院」という強制入院は、家族(家族がいない場合は首長)の同意によって実行される仕組みです。精神医療の現代的水準からいえば、患者さんを治療に導く手立てに「強制入院」が必要となるケースはありません。実際、イタリアは精神科救急医療の充実によって、精神科病院を全廃しています。
子どもの領域でも参画と意見表面権の保障は、世界標準からかけ離れた低水準です。
前回のブログで取り上げた改正児童福祉法は、わが国が1994年に子どもの権利条約を批准して以来30年経過して、ようやく子どもの意見表面権に係わる仕組みの整備を児童福祉に位置づけました。
その内容は、「児童の意見聴取等の仕組みの整備」として、「児童相談所等は入所措置や一時保護等の際に児童の最善の利益を考慮しつつ、児童の意見・意向を勘案して措置を行うため、児童の意見聴取等の措置を講ずることとする。都道府県は児童の意見・意向表明や権利擁護に向けた必要な環境整備を行う」というものです。
これでは、児童福祉法以外の領域、たとえば学校教育や子どもに係わる社会の取り組み全般に広げていく政策意図があるとは言えません。子どもの意見表明権の侵害事案に対する点検・救済・補償のシステム整備も必要不可欠です。
ヨーロッパにおける子どもの参画と意見表明権については、多様な施策形成への参画(学校教育や児童福祉等の制度領域による制限はありません)は無論のこと、子ども向けテレビ番組の内容づくりへの参画と意見表明まで保障されています。
改正児童福祉法の示す「意見聴取等の仕組みの整備」は、子どもの権利条約の求める参画と意見表明の基準からみると「半額の六掛け」程度です。大阪のバッタ屋の値札と同じくらい安くいかがわしい。「こども家庭庁」の創設は、厚労行政、文部行政等の省庁の垣根を越えた取り組みの推進にあったのではないのですか。
障害領域においても、Noting about us without us!! の制度化はほとんど進展しない。
「ノーマライゼーション7か年戦略」にもとづく障害者プラン(1996~2002年度)は、プランニングへの当事者の参画をしっかり位置づけました。このとき以来、私は埼玉県内自治体の計画策定にずっと関与してきましたが、知的障害と発達障害のある人たちの参画と意見表明権の保障は遅々として進みません(私が関与したところでは、精神障害のある人の参画は進みました)。
これらの障害種別は親だけが委員となる「代行参画」です。当事者の参画にもとづく施策形成の開始から30年近く経とうとしているのに、知的障害と発達障害については未だに「本人抜きの親だけ」という事態は、もはや障害者権利条約違反に該当するでしょう。
「居住地をどこにして、誰と生活するのか」に係わる意思決定についても、本人抜きの、家族や支援者による代行意思決定は、知的障害・発達障害のある人たちへの人権侵害です。
昨年の9月、国連・障害者権利委員会は日本への総括所見(勧告)を出しました。この委員会には知的障害のある委員もいます。ジュネーブで開催されたわが国へのヒアリングの中でも施設入所に依存した日本の居住支援について、第19条違反であるとの指摘をしたのは知的障害のある委員です(2022年10月3日ブログ参照)。
施設従事者等による障害者虐待の検証活動の中で、私が実施した司法面接(事実確認面接)の経験から、言語発達レベル3歳を下限として面接の成立することか分かっています。この発達年齢による下限は、療育手帳のAであり、各都道府県の基準においても「重度」に該当します。
このようにみてくると、知的障害や発達障害のある本人の意思決定を起点に据えた取り組みは、合理的配慮の徹底によって十分可能であることが分かります。
支援の内容と方法については、知的障害や発達障害の特性を十分吟味しないのに、代行意思決定については、「言語的なやり取りと判断ができない、難しい」などと障害特性を理由にする質の悪い言い訳が横行しています。
子どもや知的障害のある人の場合、周囲の家族と支援者の持つ言語的優位性に圧倒され、本人の意思への誘導と抑圧のバイアスを介した「形だけの意思確認」に持っていくことも広く蔓延しています。
したがって、意思決定に係わる専門家とその支援機関は、親・家族、行政機関、指定障害福祉サービス施設・事業者のいずれからも完全に独立した組織として整備すべきです。この独立性が担保されない限り、障害のある人の意思が歪められ、支援に係わる利益誘導や利益相反行為が横行します。
障害者支援施設やグループホームの利用は無論、成年後見制度の中でさえ、代行意思決定が広く行われている現実がある限り、精神科病院への「強制入院」や引きこもりの人の「強制連行・監禁」という人権侵害もわが国で克服されることはありません。
このような人権侵害行為の責任は、家族と支援者にのみある訳では決してありません。ひきこもりや障害のある人のゆたかな地域生活を担保する支援サービスを必要十分に整備してこなかった施策の貧しさが諸悪の土台です。
今さらのように、営利セクターの経営・運営するグループホームの、飲食代に係わる組織的な経済的虐待が明るみに出ました。障害者権利条約を「障害のある人の日常生活世界の権利」に結実させようとしない、わが国制度の抑圧的な後進性が露呈しています。
東京都立松沢病院名誉院長の齋藤正彦さんは、「世界標準から大きく外れた日本の精神医療を根本から変えるためには政治と社会の変革が不可欠」であり、人員配置と専門性の担保された国公立の精神科病院を拡充して本人の意思を尊重する精神科医療を進めれば、拘束の必要がなくなることを明らかにしています。
意思決定・意見表明の機会を剥奪した強制入院や施設入所が、障害のある人をますます不安と混乱に陥れることによって、暴れてしまう状態像に追い込むのだという齋藤さんの指摘を重く受け止めるべきでしょう(https://www.videonews.com/marugeki-talk/1171)。
家族や支援現場に障害のある人を支援するための十分な条件がないとしても、代行意思決定を正当化し続ける理由にはなりません。家族・支援者・行政が具体的な課題意識を持とうとしない現実は、わが国の深刻な問題です。
東京大学安田講堂
Covid-19感染による授業の欠席で単位を取得できず、留年が決まった東大生(21)が、大学の単位不認定処分の取り消しなどを求めた訴訟で、この20日に最高裁第3小法廷(今崎幸彦裁判長)は学生側の上告を退け、学生側の敗訴が確定しました。裁判所は大学の対応の妥当性を判断しませんでした。単位認定手続きの形式要件を満たしているかどうかを審理しただけなのでしょうか。
学生と大学(具体的には履修している授業の担当教師)とのやりとりの経緯や履修規定は不明ですが、元大学教師の立場から言うと、この判決は不当で理解できません。Covid-19という未曽有の困難の渦中における履修と成績評価については、履修規定上の問題があるとしても、学生に不利益の及ばない手立てを講じるのが大学の責任だと考えるからです。
「大学の対応の妥当性について判断を避けた」この判決の最高裁判事に対して、私は国民審査を通じて「罷免」の意見表明をします。Covid-19という未曽有の困難の中で、留年を余儀なくされた学生は、一年間の授業料と生活費を余分に負担しなければならない。都内で下宿する東大生なら、一年で軽く300万円程度の出費を強いられます。最高裁は、「国立大学の授業料の無料化と生活費の国家的保障の実現が、日本国憲法に即した教育政策である」くらいのことを言ってから、判決に臨めばいいでしょう。