宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
改めまして国民的生活標準
埼玉大学教育学部に社会福祉士養成コースを開設したとき(1990年)、カリキュラムの設計を担当した私は、学生の実習施設から特別養護老人ホームと知的障害者の入所型施設(入所更生・収容授産)を除外しました。
その理由は、二つあります。
一つは、社会福祉の専門的学識を培う大学のカリキャラムでは、要介護状態の高齢者や障害のある人に偏った社会福祉のイメージに縛られない必要があると考えたからです。
福祉サービスの利用要件と多様な福祉制度の成立発展の契機は、貧困、養護、虐待、婦人保護、単親家庭等の多様な生活困難にあり、要介護状態や障害だけではないことの理解が重要です。
大学で授業のはじまりに「福祉と聞いてどんなイメージを持ちますか?」と訊ねると、教育学部の学生からは「困っている他者を助ける営み」をめぐる多様で拡散した答えが返ってきます。
例えば、「車いすを押す」、「ヘルパーさんの仕事」、「盲導犬」、「歳末助け合い」、「老人ホームの介助」、「バリアフリー」「障害者の施設」等の断片的で拡散した回答です。ここで、「困っている人」のほとんどは、要介護高齢者と障害のある人に収斂しています。
就学前に保育所に通っていた学生に挙手を求めると、受講生の1/3程度はいるのですが、保育所が児童福祉施設であることを知っている学生はほとんどいません。社会福祉は「何かに困っている他者のためのもの」であり、自分とはひとまず無関係な代物です。
高齢者・障害者以外で近年多くなった社会福祉のイメージに、「災害ボランティア」があります。東日本大震災が大きな契機だったようで、全国の社会福祉協議会が、自然災害の度に被災者支援ボランティアのコーディネートをしている光景をマスコミが流すため、社会福祉は災害支援までを含みこむイメージにまで拡散しています。
社会福祉が高齢者と障害者に偏ってイメージされてしまう背景には、小中学校の福祉教育の問題も大きいと感じます。
小中学校の先生方が、「福祉教育」の題材に引っ張ってくる領域は、圧倒的に高齢者と障害のある人です。小中学校の先生方が、保育所を児童福祉施設として理解していない現実のあることに驚いたことさえありました。
社会福祉の基本は、障害のあるなしに拘わらず、多様な生活困難を抱えるすべての国民を対象に、困難の軽減・克服への支援を通じて、ゆたかな生活を共に創る営みであることを学習することが、学生にとっての最重要課題であると考えていました。
もう一つは、障害のあるなしに拘わらず、「品のある(ディーセントな)、健康で文化的な生活」を創出し続ける具体的な支援のあり方とやりがいについて、福祉実習を通じてリアルに学習する重要性を踏まえてのものです。
ここでいう「品のある(ディーセントな)、健康で文化的な生活」とは、「国民的生活標準=ナショナル・ミニマム」を指します。
ナショナル・ミニマムの概念は、生活保護の定める「最低限度の生活水準」のように、「標準的な生活を下回るけれども何とか生活できる最低限度」という意味ではありません。
ナショナル・ミニマムの概念を明らかにしたシドニー・ウェッブとビアトリス・ウェッブの見解によれば、「品のある、健康で文化的な生活」をすべての国民の生活標準として定め、それ以下の生活を根絶するための政策と支援の営みのことです。
ここに、前回のブログで指摘した「福祉・介護は諸科学の吹き寄せ」の基軸が提示されているのです。福祉サービスの様々な専門的知見と支援スキルを「吹き寄せる」枠組みと基軸は、国民的生活標準の不断の創出に据えられるべきです。
この営みは、「多様なニーズに対応する多元的な福祉サービス」という抽象的に拡散した島倉千代子的「人生いろいろ」状態ではありません。
今日の福祉・介護が「人生いろいろ」型に拡散してしまう原因は、多元的サービスによる支援システムの構想にあります。この構想は、「人生いろいろニーズ=多様なニーズ」に応じるための「多元的サービス」の必要を口実に、市場原理の導入と営利セクターの福祉・介護サービスへの参入を図ることを目論んでいます。これがまさに構造改革です。
営利セクターの有料老人ホーム、グループホームおよび放課後デイサービスで虐待の発生が目立つようになっている現実は、「多様なニーズに対応する多元的サービス」という福祉政策の根太が腐っており、もはや幻想に過ぎないことを白日の下にさらしています。
国民的生活標準の重要性について、北欧の障害福祉の発展から例証すると次のようです。
まず、第二次世界大戦の災厄から復興した1960年代に、北欧の社会保障・社会福祉は一般市民の「人たるに値する生活標準」を国民の権利として保障するようになりました。
次に、一般市民に保障されるようになった生活標準を、身体障害のある人の領域で実現できるよう、政策と実践の両面で努力を傾けます。その1970年前後の成果は、石坂直行さんの『ヨーロッパ車いすひとり旅』(1973年、日本放送協会出版)に明らかにされています(2021年12月6日ブログ参照)。
さらに、一般市民と身体障害のある人に拡充されてきた生活標準を、1980年代にかけて、知的障害や精神障害の領域で達成できるよう不断の努力が続きます。そうして、1980年代には障害のあるなしに拘わらず「品のある、健康で文化的な(=「人たるに値する」)生活標準」がすべての国民に保障されるようになりました。
デンマークにおける知的障害のある人の生活標準の豊かさを示した労作は、小賀久さんの『幸せつむぐ障がい者支援』(2020年、法律文化社)です。改めてこの書をお読みになることをお薦めします(2020年12月14日ブログ参照)。
時代とともに不断に変化する国民的生活標準を、一般市民を皮切りに、身体障害、知的障害や精神障害に敷衍し拡充していったデンマークの制度的所産は、社会サービス法に結実しています。
この法律は、すべての国民に対する社会福祉サービスを一元的に規定し、障害児者のための章立てもなければ、障害についての規定もありません。障害概念はICFに拠ります(https://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/jiritsu/hikaku-h20/denmark.html)。
社会サービスを一元的に規定するのは、国民的生活標準を実現するという法の目的を、すべての国民が共有しているからです。
支援の実施に必要なアセスメントはICFに依拠し、現場の支援者は、わが国の障害福祉領域よりも高度な専門的支援を実施しています(小賀久さんの前掲書を参照のこと)。
ノーマライゼーションについて簡単に言えば、一般市民の享受する生活標準と市民としての権利行使のすべてを、障害のある人も例外なく享受できるようにすることです。ただし、このことを実現するために必要な特別の支援を排除するものではありません。
ナチスの強制収容所を体験したバンク・ミケルセンは、1950年代に知的障害のある人の親たちに引っ張り出されて、知的障害者施設の実情を視察しました。このとき、当時の知的障害者施設が「ナチスの強制収容所と同様」に一般市民の生活標準とかけ離れていることを問題視したことが、ノーマライゼーションの出発点にあることはよく知られています。
つまり、ノーマライゼーションとはナチスの強制収容所に対する批判と反省を起点に、知的障害のある人たちに一般市民と同等の生活標準を権利として保障することでした。このような文脈の中こそ、ノーマライゼーションやソーシャル・インクルージョンの概念を理解することかできます。
デンマークにはじまったノーマライゼーションの歩みから70年余りが経過しました。わが国の障害者支援施設の現状は、今日なお、一般市民の生活標準とは大きくかけ離れた問題があると言わざるを得ません。
外出が自由にできない、通信や面会の自由が保障されない、資産の管理権を剥奪している、小遣いさえも自由に持たせてもらえない、毎日お風呂に入れない、施設臭が改善されない、虐待を隠蔽する、虐待を通報しない…。
東京都府中市にある社会福祉法人清陽会の障害者支援施設「府中ひまわり園」は、副理事長を中心に、約10年間にもわたって、虐待を繰り返していたことが明らかになりました(https://news.yahoo.co.jp/articles/618dfd3d6835edd511fa2dc505c8be0e5d85a382)。
この副理事長は、府中市職員OBで、在職中には障害福祉担当の経験もある人物です。副理事長は規定外の給与を受け取り、妻と娘を法人に雇用させ、知的障害のある利用者に対しては「どうせ家で話せるわけがない」と高を括って虐待を繰り返していたのです。
理事長は虐待の一部を隠蔽し、府中市と東京都も内部告発や通報があったにも拘らず、虐待の認定をすることなく無駄な時間だけが経過しました。
虐待を被った利用者は、虐待に起因するPTSDの診断が出ました。社会福祉法人清陽会には、正副理事長を解任し、両者を刑事告発する社会的責任があります。この事案は、虐待防止法の範囲を超えた刑事事件に相当するものと考えます。
もし、障害のある人の施設にこのような現実があるとすれば、北欧の一般市民は強く改善を訴えます。わが国では、市役所のOBがいれば虐待通報があっても「なあなあの関係」ですましたまま、10年経ってしまうのです。
わが国の一般市民と地域社会は、障害のある人が享受すべき生活のあり方について、障害者施設や支援者に丸投げします。ここでは、一般市民の生活と障害者の生活はそれぞれ別ものであり、国民的生活標準にもとづく生活のあり方を共有しようとすることはありません。
そこで、特別養護老人ホームや障害者支援施設の暮らし向きは、一般市民が享受している標準的生活と程遠い実態にあっても、問題視されない構造ができ上るのです。多くの施設利用者は、「もはや自宅で養護・介護することはできないから」という事情から、特養や入所型障害者施設を人生の「終着駅」とします。
このような現実を前に、社会福祉の専門的学識を学ぶ学生が「社会福祉のあり方」を刷新するための課題意識をもって、批判的に学ぶことは容易ではありません。そこで、学生の実習先から、特養と障害者支援施設を除外したのです。
もちろん、障害のある人とその家族の生活現実の厳しさについては私なりの理解がありますし、現行制度にある障害者支援施設やグループホームを改善するための現実的なストラテジーを明らかに提示しています(一般社団法人全国知的障害者家族連合会編著『地域共生ホーム‐知的障害のある人のこれからの住まいと暮らし』、2019年、中央法規出版)。
コサギの群れ
水辺の鳥が涼しげに見える一方で、インド南部やスリランカの野鳥であるワカケホンセイインコは日本で越冬し、留鳥となって繁殖するようになりました。日本はもはや「温帯」ではないのです。この間、日本海側の地域に豪雨被害が蔓延する一方で、灼熱地獄のような暑さが各地を襲っています。「特別警報」は「いつもの警報」になりつつある感を否めません。このような気候が当たり前となり、もはや日本列島の「平年」の様子だと受け止めなければならない時期にきているのではないでしょうか。