宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ
疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。
- プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)
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大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。
福祉は諸科学の吹き寄せ
上方落語を代表する落語家で人間国宝の桂米朝(1925-2015)さんは、生前よく「落語は話芸の吹き寄せや」と語りました。「歌舞伎や文楽、能に狂言、何でも知っとかんとあかんのや」(桂米朝『落語と私』、21-54頁、文春文庫、1986年)と。
実際、落語を極めるために、幅広い話芸に通じていました。歌舞伎の勧進帳の富樫(逃避行する源義経と弁慶を関守富樫左衛門が北陸安宅の関所で迎えてやり取りする場面)が米朝さんのお気に入りで、一門が集まったときの余興でよく演じる十八番だったそうです。
米朝さんは京都の祇園にも通い、歌舞音曲を習得する努力を重ねていました。芸妓遊びが目的ではないため、お座敷に呼ぶのは芸達者な年配の芸者さんばかりです。そして、講座の枕では「芸者3人呼んだら年齢合計200を超します。散財してんのやら、敬老会やってんのやら」と笑いを取っていました。
「様々な話芸に通じる」だけでも大変な上に、それらを落語にまとめ上げる営みは高度な専門性が求められます。実際、桂米朝さんと個人的に会った人の感想は例外なく、米朝さんは「まるで学者さんのようだった」というエピソードが残っています。
それでも、「落語は話芸の吹き寄せや」と言うとき、どこに吹き寄せるのかは米朝さんにとって自明のことだったのではないでしょうか。
落語とは、面白おかしい話で聴衆を笑わせ、終わりに「落ち」(サゲ)をつける話芸です。そこで、多様な話芸をまとめ上げる基軸に「笑い」と「落ち」がある。人間の暮らしを彩る喜怒哀楽の多様な文脈と内容について、さまざまな話芸を駆使して落語の「笑い」と「落ち」に結実させていくのです。
さて、福祉・介護は学際的な領域だと言われてきました。米朝さん風に言うなら「福祉は諸科学の吹き寄せや」となる。ここには二つの意味があります。
一つは、個々の支援者が多様な科学の専門的な知見とスキルを持つという意味で、「学際的専門性」(専門性の吹き寄せ)です。もう一つは、多様な領域の専門家が支援ネットワークの一員となって協力する意味で、「学際的協力」(専門家の吹き寄せ)です。
表現の仕方は様々にあるとしても、福祉・介護の仕事に必要な知見とスキルの特質は、このような二つの点の学際性にあると指摘されてきました。しかし、これが分かったようで分からない。少なくとも私は、今日まで納得できるところまで来ていません。
ここでまず、福祉の世界で働くためのオリエンテーションものの書物(個人的には、これに類する書物のすべてが例外なくつまらないと考えていますから、書名をいちいち上げることはしません)を開くと、福祉・介護の仕事について、およそ次の二点から説明していることが分かります。
一つは、高齢者、障害者、児童の領域を中心に、多様な境遇に身を置く、すべて人たちの日常生活を支援することが福祉の仕事であるとします。福祉・介護のオリエンテーション本の多くは、支援のあり方について「それぞれの人の幸せの追求」を意味する言葉は出てきますが、「健康で文化的な」はあまり見かけません。
もう一つは、諸資格の説明です。介護福祉士、社会福祉士、精神保健福祉士、保育士、児童福祉司、ケアマネジャー、理学療法士、看護師、手話通訳士…などの「諸資格」の説明と有資格者の「強み」が簡潔に説明されています。
資格は、任用資格や国家資格など、制度上の位置づけの違い(ただし、どのように違うのかを説明することはほとんどありません)を含めて、実に様々であることが書いてあります。
障害のあるなしに拘わらず、子どもからお年寄りまでの、すべてのライフステージの人たちが支援対象であり、資格もさまざまであるとなると、福祉・介護の仕事を考えるとっかかりははっきりしないし、どのような仕事であるかのイメージもいろいろありすぎて拡散してしまいます。
次に、福祉・介護の資格養成に係わる講座テキストを開いてみます。中央法規出版から刊行されている資格養成講座(有資格者を目指している人には鉄板の書、お薦めです!)に従って、社会福祉士(全21巻)、介護福祉士(全15巻)及び精神保健福祉士(全21巻)の各巻とその目次を開きます。
目に飛び込んでくる目次を見るだけで、これらの資格が、まことに広い専門領域から構成される学際的性格を持つことが分かります。正直に言うと、私には、目次を見るだけでめまいに襲われ、気を失いかけるほどの広大な学際性です。
基礎科学から整理すると、社会学、心理学、法学、行政学、看護学、医学、経営学、社会福祉学(社会福祉原論、社会福祉援助技術論)など、人間の暮らしと社会に係わるすべての科学が登場します。
障害のあるなしに拘わらず、赤ちゃんからお年寄りまでのすべての人を対象に、それぞれの人の幸せな暮らしを実現することに資する、諸科学を駆使した支援スキルを担保する専門領域が社会福祉である。
すると、私はほとんど圧倒され、理性を失いかけて大阪弁で叫びます。「これホンマかいな、フツーの人間にはできまへん、やれるとしたら聖徳太子くらいや」と。
それでは、福祉関係の仕事の学際性は、すべての人を対象に、何を基軸にして総合的な支援に仕上げていくのか、そこにある専門性の特質のコアはどこにあるのでしょうか。
まず、「子どもからお年寄りまでのすべての人」と、まるでイギリスのベヴァリッジ・プランの副題「揺り籠から墓場まで」のように支援対象を解説しているオリエンテーション本は大嘘つきです。
生活保護の判定基準をはじめとして、要介護度や障害支援区分等の利用要件は頻繁に政策的に操作されていますから、支援サービスを利用できない人は常にマジョリティとして存在しています。この利用要件の厳しさに泣いてきた人がどれほどいるのかを解説するくらいの、最低限度の正直さをわきまえたオリエンテーション本はありません。
次に、何を基軸にして総合する専門性なのか。個人の幸福を追求し実現していく暮らしに、諸科学の専門性を駆使するというなら、多様な価値が分散しているだけで、せいぜい島倉千代子の『人生いろいろ』を歌っていればいいのではありませんか。
人間の生活に係わるさまざまな専門と、広範多岐に渡る制度実務に通じていなければならないことは分かります。しかし、何が専門性の基軸になっているのかは曖昧だから、吹き寄せの実態は「ごちゃまぜ」のまま、仕事の基軸はただ制度実務に収斂していくだけの構造になっているのではありませんか。
たとえば、介護の仕事で制度的にやれることとやれないことの不当な線引きがわが国では行われています。介護の仕事の業務範囲を制度上、制限列挙主義的に定めている国は、私の知る限り、世界で日本だけでしょう。
以前にこのブログでも書きましたが、全身性の障害のある人への訪問介護において、飲み水をコップに汲むことは介護の仕事だが、訪ねてきた友人が活けていった花瓶の水を換えることは仕事外でしてもらえない。家の内側の掃除は仕事の範囲に入るが、外側は仕事外で何もしてもらない。
それぞれの人の生きる必要や幸せを個別具体的に考慮する仕組みではないのです。利用要件やサービス内容は、制度の側から一方的に枠づけられているところで、諸科学を動員した学際的専門性で一体何を実現するというのでしょう。
そこで、専門性のない支援者ほど、「制度的にできることとできないことはあるのですが、できる範囲でその人の幸せを追求する努力をしています」などという戯言をいう。えーいっ、「責任者出て来い!」。こんな学際性は、単なる張りぼて(見掛け倒し)に過ぎません。
ある障害者支援施設の管理者と有資格者の配置について話しあうことがありました。その管理者は、有資格者の配置に事業者報酬の上乗せ等の制度的インセンティヴが設定されても、「現場の支援には、実質的に意味がない」と言います。
その理由は、個々の職員の仕事の質や専門性の水準が資格の有無とは関係がなく、「資格がなくてもできる人はできる、場合によっては有資格者よりも優れた人さえいる」から、施設の運営・経営のマネジメントの基軸に資格の有無を置くことは弊害の方が大きいと。
高度に発達した福祉サービスを実現してきた北欧では、上級ソーシャルワーカー以外の福祉職は、基本的に現任訓練だけです。だから、多くの支援者は資格など不要で、必要十分な現任訓練の実施できる現場の条件整備を進めてきました。
北欧の現場職員の多くに資格がないからと言って、「待遇が低い」ことが問題になったことはありません。支援者の待遇、資格(専門職制)、および専門性の問題は関連してはいますが、それぞれに異なる問題です。資格があれば待遇が良くなるという法則はなく、ただの幻想です。実際、わが国の手話通訳士の年収は150~200万円台前半ですから。
むしろ、福祉・介護の支援者に多様な職歴からの参入が目立つようになって、一方では、多様な職業経験を活かした支援の豊かさを作ろうとする向きがあるかと思えば、他方では、雑多のものが混入する弊害も出てきています。
たとえば、接客(営業、飲食、水商売等)に係わる仕事をしてきた経験が、福祉・介護の支援に「活きる」という話を平気で公言する人たちがいるようですね。このような戯言を放つ人は、通常の接客の営みと福祉的支援の中で取り結ぶ支援者とクライエントの関係との異同さえ基本的に理解できていないのでしょう。
「福祉は様々な仕事の吹き寄せ」とも言えますから、どんな仕事であれ、以前に働いていた仕事の経験が活きるところは必ずあります。ところが、福祉・介護ならではの仕事や専門性の基軸を自覚できていないから、かつての仕事の経験値がそのまま活きるかのように錯覚してしまうのでしょう。
実際、クライエントから私に寄せられる不満は、以前からの職業的経験の延長線上で押し切ってくる支援者の粗雑なアセスメントに集中しています。経験の範囲外の問題に気づこうとする専門的な学習をサボタージュしている人がかなり目立つのです。
障害福祉領域の支援は、とくに多様な専門性の総合が問われる学際的な営みです。この障害領域における支援者と支援は、どのような問題や矛盾を抱える実態にあるのか。これらはとても一括して叙述できる代物ではありませんが、次回からのブログで問題提起を尽くしてみたいと考えています。
お菓子の吹き寄せ
先日、用向きがあってお菓子の吹き寄せをデパ地下まで求めに行きました。なかなか見つからないので、和菓子系のお店に立ち寄って「吹き寄せを探しているのですが」と訊ねてみると、すべての店員がお菓子の「吹き寄せ」を知らないのです。いささか驚きました。
お菓子の「吹き寄せ」は、子どもの頃、戴きものでときどき食べたことがあります。残念ながら、あまりいい印象は残っていません。いろんな種類のお菓子がごちゃ混ぜに入っているのですが、おいしいものを選りすぐって先に食べてしまい、かさを稼ぐために入っている今一つのお菓子だけが入れ物に残ります。「いろいろ入っているだけ」では何の魅力もないことの見本です。だから、和菓子屋の店員にさえ名前を忘れられているのでしょう。福祉系の学校が軒並みFラン化しているのは、このようなことではないでしょうか。