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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

酸っぱい葡萄―障害のある人とルサンチマン


 障害のある人に関連する仕事を通じて、私にはこれまで数多くの障害のある人との出会いがありました。

 少なくとも千人は超えるでしょうか。多様な障害種別の、生い立ちや社会的な立ち位置の異なる多様な人たちは、決して「障害のある人」の一言で括ることはできません。

 したがって、今日のブログで取り上げる「障害のある人とルサンチマン」についても、全く関係のない障害ある人たちは大勢います。この点については、どうか誤解のないようにお断りしておきます。

 そこでまず、本題に入る前に、ルサンチマンとは関係のない方を紹介しておきます。

 脳性マヒで全身性の不自由のある人と、私は障害者施策を議論する間柄となり、その後、飲み友だちにまでなりました。

 この人には「就学免除」によって不就学を余儀なくされた生い立ちがあります。それでいて、話題は豊富で教養も溢れ、地域の障害者施策について議論するときには機知に富んだ具体的提案や戦略を語ってくれました。優れた「言葉の遣い手」です。

 その友人は学校教育を剥奪された過去があるにも拘わらず、どこで、どのようにして、様々な知識や考える力をわがものとしてきたのかを尋ねたことがあります。すると、近所のおじさんの中に、基本的な「読み書き」「算数」だけは大事だと親切に教えてくれる人がいたことがはじまりだと言います。

 青年時代には、映画『キューポラのある街』を観て感動し、原作者の早船ちよの作品を図書館で借りて読んでいたそうです。

 Windows95の頃からパソコンを使うようになって、手指の不自由からそれまで使うことのなかった筆記用具のかわりに、パソコンのワードプロセッサ機能を活用し、指一本でキーボードを叩きながら作文し、書き言葉の力が習熟していきました。

 そして、インターネットを介したメールのやりとりで全国の人たちと交流し、連絡し合うようなったことは、自分の考えを深め視野を広げることになりました。たとえば、雪国の車いす生活者とのメールのやり取りから冬の苦労を知って、ほとんど雪の降らない地域で暮らしてきた自分との違いにたいそう驚いたことがあると伺いました。

 この人は、1979年養護学校義務制に至るまで続いてきた「就学猶予・免除規定」によって教育を受ける権利を剥奪されてきたことに怒りを抱いていたと言います。それでも、多様な人との出会いと支え合いの交流を通して自分の望ましい力と暮らしを実現していく積極的な活動に転じた経緯を作っています。このような場合は、ルサンチマンに陥ることはありません。

 また、力の優位性をもつ強者(支援者も該当します)に対して抱く敵意や復讐心を、相手に罵詈雑言を吐くことや危害を与えることなどの、憂さを晴らす行動を実際に起こすことができるのであれば、この場合も、ルサンチマンを防ぐことが期待できます。

 それは、たとえ望ましいルサンチマン回避の方法とはいえないとしても、否定的感情が内面で屈折し、澱のように沈殿することはないからです。

 ルサンチマンは、強者に対して敵意・憎悪・復讐心のような否定的感情を抱きながら、それを解消するいかなる行動をとることもできず、自身の無力感と結びついて抑圧される場合に陥るのです。

 ここで、相手に対する敵意と自身の無力感の間に緊張が続く点が、ルサンチマンを更なる深みに誘います。

 敵意と無力感との間の緊張を何とか解消しようとする、独特の考えの運びが生まれるのです。それは価値倒錯です。自分が望んでいる価値や暮らしを断念するのではなく、価値の屈折した歪曲によって、価値を倒錯してしまうのです。

 いうなら、イソップ物語の「酸っぱい葡萄」がそれに当たります(マックス・シェーラー著『ルサンティマン‐愛憎の現象学と文化病理学』、51-59頁、北望社、1972年。なお、この本は『愛憎の現象学―ルサンチマンと文化病理学』、金沢文庫、1973年と頁配分も訳者あとがきも全く同じ本で、タイトルだけが違う不思議な本です)。

 キツネが甘くて美味しそうな葡萄を見つけて狙っているのですが、とても高いところに生っているためにどうしても取ることができません。そこで、「あの葡萄は酸っぱくて食べなくていいのだ」と対象の価値を貶めて自己満足に運び、緊張を緩和しようとするのです。

 ここでキツネは、「甘い」という価値を否定しているのではありません。「あの葡萄は酸っぱいから食べなくていいのだ」と、「甘さ」に対する価値を認めたまま、「あの葡萄は酸っぱいのだ」と価値を空想的に倒錯させて「食べなくていい」とすり替えるのです。

 その他、次のような例があるでしょう。おしゃれするための高い洋服やアクセサリーが欲しい、美味しい和牛の焼肉を腹いっぱい食べたい。でも、懐が寂しくて手を出せない。すると「足るを知ること」「質実剛健」「節約」という想念をもって、自らの欲求となすすべのない無力感との緊張を解消しようとする。

 私にも価値倒錯による欲求と無力感の緊張を解消しようとした体験があります。

 北海道での仕事が続いていた時、大阪―札幌間を走っていた寝台特急トワイライト・エクスプレスのA寝台に何とか乗ろうと企てました。みどりの窓口に朝一番に並び、旅行業者にも依頼するという二股をかけた切符取りのチャレンジを5回試みましたが、すべてハズレ。

 当時、「ダフ屋」行為が明確に禁じられていなかったため、ネット・オークションでは、トワイライト・エクスプレスのチケットがB寝台で10万円以上、A寝台で20万円以上の値がついて山のように売りに出ていました。とても手の出せる金額ではない。

 チケットの入手を阻むダフ屋連中への敵意と自身のどうすることもできない無力感との間には、緊張した苛立ちが続きます。ここで、「酸っぱい葡萄」型の価値倒錯が起きるのです。

 「俺の取ろうとした日のトワイライト・エクスプレスは、きっと途中の踏切で大型トラックと衝突脱線事故を起こし、多数の死傷者が出たところを俺は乗らずに済んだのだ」と手の込んだ価値倒錯を通して、緊張をなだめようとしたのです。

 もちろん、「衝突脱線事故のニュース」は一向に飛び込んできませんから、空想による価値倒錯によるメッキのような誤魔化しはすぐに剥がれ、緊張の苛立ちはいつでもフラッシュバックするのです。

 私の場合、この恨みは、日本最後の寝台特急サンライズ瀬戸のデラックスシングルのチケット獲得でルサンチマンへの沈殿を回避することができました(2022年12月12日、ブログ参照)。

 話しを本題に戻すと、わが国における障害のある人には、ルサンチマンに誘われやすい客観条件が放置されてきたと思います。

 まずは、所得保障が劣悪な点で、市場の中で貨幣経済的な豊かさを獲得することに著しい制約があります。次に、障害に由来する活動のさまざまな制約が自律的で積極的な取り組みを難しくする場合が起こりやすい。これらがともに、障害のある人にルサンチマンを発生しやすいわが国の客観条件となっているのではないでしょうか。

 でも、積極的な価値―たとえば、生の歓喜、自由、栄光、権力、幸福、美貌、富、力など―を否定し続けることはできない。そして、これらを獲得したいが入手できないという虚しさがルサンチマンのある人を苦しめ続けます。

 場合によっては、これらの積極的な価値は「本当はすべて空虚なのだ」という方向に想念を転じることによって、「人間を救済に導く優先的な価値」は、これらとは正反対の現象―貧困、苦悩、不幸、死―の内にあるとするところに落としどころを持っていく人が出てくるのです。

 こうして、否定的感情と無力感の間の緊張は解消されないところで、さまざまな価値倒錯を重ね、複雑な抑圧を内面に構成していく。

 ルサンチマンに陥っている人が、一見平静に見える佇まいや穏やかな話し合いの状態から、突然、批難や誹謗中傷を吐くような形で、憂さを晴らそうとする出来事が起きるのはこのような経緯からです。

 私は、ルサンチマンに陥った障害のある人が、恰も「呪いの言葉を吐く」かのような場面にたびたび遭遇した経験があります。(次回に続く)

ナミテントウの幼虫

 庭の梅の枝に夥しいアブラムシがついていました。数日後にナミテントウとクサカゲロウの幼虫がたくさん現れて、どんどんアブラムシを食べていきます。何とも心強い。しかし、気温のアップ・ダウンが激しく、梅の実の生り具合が今一つの状態です。先日、ある葡萄農家の方と話をする機会があり、昨今の季節の移ろいは、これまでの農作業の経験値をまったく役立たなくしていると嘆いていました。農作業の組み立てを見通すことが難しく、いつ実ができるのかも分からないと言います。エルニーニョやラニーニャと言われても、もう分からんニャ。