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宗澤忠雄の福祉の世界に夢うつつ

宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

疲労が溜まりやすい福祉の現場。
皆さんは過度な疲労やストレスを溜めていませんか?
そんな日常のストレスを和らげる、チョットほっとする話を毎週お届けします。

プロフィール宗澤 忠雄 (むねさわ ただお)

大阪府生まれ。現在、日本障害者虐待防止研究研修センター代表。
長年、埼玉大学教育学部で教鞭を勤めた。さいたま市社会福祉審議会会長や障害者施策推進協議会会長等を務めた経験を持つ。埼玉県内の市町村障害者計画・障害福祉計画の策定・管理等に取り組む。著書に、『医療福祉相談ガイド』(中央法規)、『成人期障害者の虐待または不適切な行為に関する実態調査報告』(やどかり出版)、『障害者虐待-その理解と防止のために』『地域共生ホーム』(いずれも中央法規)等。青年時代にキリスト教会のオルガン演奏者をつとめたこともある音楽通。特技は、料理。趣味は、ピアノ、写真、登山、バードウォッチング。

滝山病院事件の背後にある根深い問題


 東京都は、4月25日、八王子市にある精神科の滝山病院に対して、医療法と精神保健福祉法にもとづく改善命令を出しました。

 この病院をめぐっては、以前から「虐待が行われている」との情報が都に寄せられていたにもかかわらず、虐待映像がこの2月末に表に出るまで、虐待防止に資する事前対応をとることはできていません。

 また、虐待を行った看護師が逮捕される一方で、朝倉重延院長の責任は今のところ問われてはいません。3月3日に実施された日本精神科病院協会による虐待事案に係わる院長らヘの聞き取り調査に対して、朝倉院長は「寝耳に水だ」と答えています。

 この病院の元職員は、朝日新聞の取材に対し、暴力は昔からあり、「調査の日だけ、拘束用のひもはロッカーに隠す」と証言し、非常勤職員の割合は90%を維持してきたようです(https://digital.asahi.com/articles/ASR3G61ZNR39UTIL00F.html?iref=pc_rellink_02)。

 高い非常勤職員の割合については、「福利厚生費」を安く上げようとする先代院長の考えからのものだったと報じられていますが、この話を裏返すと、病院経営による利益を最大化し、限られた人数の常勤幹部職員の高い待遇につなげていたということではないでしょうか。

 調査の日だけ虐待に係わる事実を隠すという行為は、組織的に統制された業務であることは間違いなく、「寝耳に水だ」という院長の言葉をそのまま受けとめることはとてもできません。

 障害者虐待防止法上、虐待防止に係わる間接防止措置の義務は病院長にあるため、「寝耳に水だ」と主張するのであれば、虐待防止に係わる管理者としての責任を全く果たしてこなかったと告白しているようなものです。

 虐待を事前に防止する行政の指導監督は機能していない、虐待防止の責任者である管理者(病院長、施設長等)の責任が問われない問題は、前回のブログで指摘した通りです。

 都立松沢病院の斎藤正彦名誉院長は、都の監査が虐待を事前に防止する役割を果たしていない問題に加えて、精神科病院の虐待発生については構造的な問題があると指摘します(https://digital.asahi.com/articles/ASR3Q53PDR3BUTFL01G.html?iref=pc_rellink_04)。

 わが国の精神科病院は単科のところが多く、慢性期の透析治療が必要な患者を受けとめてくれる病院がないという現実は広く知られています。福祉も行政もこのような問題に策を講じることなく、滝山病院のような病院を患者さんたちの「最終処分場」のように利用してきたため、病院に厳しいことは言えなくなる。

 つまり、「行政の不作為が『必要悪』だという居直りを許しているという現実を、行政や国公立病院は自覚すべき」であり、斎藤医師は「特殊な治療を要する患者は公立で」と主張します。

 滝山病院は「死亡退院」の割合の高い状態が続いて来ました。「行き場を失った障害のある人を死ぬまで引き受けます」という社会資源には、現実的な存在理由があるとしても、「死亡退院率」の高い病院や「死亡退所率」の高い障害者支援施設は、「他に行き場がないでしょうよ」という「居直り」を歴史的に産出し続けているのではありませんか?

 障害のある人の「最終処分場」という「必要悪」を国と地方自治体は、陰に陽に容認し、積極的に活用してきたのです。

 構造的な問題から産出される悪質な虐待事案の防止に本気で取り組む気があるというのであれば、処遇困難度の高い障害のある人の支援は、専門性の高い国公立の施設で責任を負う体制整備を進めることが必要不可欠です。

 個々の病院や施設の取り組み方の工夫によって克服されるような問題ではありません。行政はこのような取り組み事例の紹介やガイドラインを提示するだけに留めることによって、改善することのない事態を放置してきたのです。

 一部の精神科病院や障害者支援施設が障害のある人の「最終処分場」と化し、「身体拘束ゼロ作戦」のスローガンを長年唱えながら一向に事態が改善されない問題の本質はここにあります。

 さらに、精神科医療には特殊な問題があるように私は思います。「精神科病院」や「精神科医」を自称しているからといって、「精神科治療にかかわる専門性」が担保されているとは限られないというわが国の現実があります。

 私の友人である精神科医は、某大学医学部の精神医学教室に所属するすべての医師の担当ケースを過去5年間にわたって調査し、治癒率の開きを明らかにする研究をしていたことがあります。

 それによると、治癒率は15%から75%までの開きがある上、大学における職位(教授、准教授…)との関連はまったくないというのです。平たく言えば、職位が高いからといって治癒率が高いわけではないということです。もちろん、この貴重な研究成果は「お蔵入り」となりました。

 このような精神科医にみられる治癒率の凸凹は、精神医学や精神科という診療科そのものがいい加減だという事実に由来するものでは決してありません。

 都立松沢病院で精神科臨床を重ね、昭和大学医学部主任教授を務めた岩波明さんは、「主要な精神疾患について、その症状や病気の経過は詳しく調べられているし、治療に関しても世界的なスタンダードも確立している」(岩波明著『精神障害者をどう裁くか』、189頁、光文社新書、2009年)と言います。

 にもかかわらず、精神科医による専門性のばらつきが生じる背景には、数値的データだけでは治療方針が確定しない場合のあることや、疾患単位の特定、面接と治療のあり方に係わる指導医のスーパービジョンの問題が介在するのかも知れません。この点は、精神科の専門医からなる学会が自ら明らかにすべき問題だと考えます。

 以前、私はある精神科クリニックに通院する女子学生をゼミ生として指導することがありました。ゼミ指導を円滑に進めるために、まず個別面談を実施し、主治医から説明されている疾患単位や治療方針について、聞き取りをしました。

 主治医の診断は「うつ病」で、持参してきた処方箋の薬袋の中には、6種類の薬が山のように入っていました。初診から2年以上経過しているのですが、調子は一向に快方に向かわないと訴えます。

 私は、他の精神科医の「セカンド・オピニオン」を受けてはどうかとこのゼミ生に提案し、私の信頼する精神科医につなげました。その診断は「双極性障害」で、このセカンド・オピニオンを出した精神科医とのラポールもできたようなので、この医師に主治医を替え、処方薬もがらりと変更することになりました。

 すると、前の主治医から女子学生の携帯電話に連絡が入り、「最近、診察に来ないのはどうしてなのか」と訊ねた上で、「もし、生活に困っているようなら面倒をみてあげてもいいよ」とまで言うのです。これは、患者の妄想ではなく、間違いのない実話です。

 この精神科医療機関は都内にあるため、私は即座に、東京都の精神科医療機関の指導監査に係わる部署に連絡を取り、このような一連の事実と必要な手立てを講じるべきではないかと伝えました。

 この女子学生によると、この医療機関はマンガなどのメディアを活用して若い患者を「集客」していると言います。地方から首都圏に出てきてメンタル・コンディションを崩した若い女性患者に対する処方箋薬の種類と量はとくに多いのではないかという情報交換が外来の待合で行われているということでした。

 前の主治医の携帯電話での台詞から憶測すると、この「精神科医」には、治療とは無関係な数々の「誤った成功体験」があるのではないでしょうか。

 主治医を替えた私のゼミ生である女子学生は快方に向かい、少し時間はかかりましたが、無事に大学を卒業することができました。

新緑の輝き

 新緑の季節です。この季節の若葉は、日差しを透過させるために輝くような緑を見せます。ところが、春らしい陽気が消え、一挙に初夏のような日照りが新緑を焦がす日々になりました。植物学を専門にする先生の話によると、このような暑さと日照りは植物にも消耗を強いるそうです。すべての生き物が穏やかな季節の移ろいを希求しているのでしょう。