梶川義人の虐待相談の現場から
様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。
- プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)
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日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。
あーもう限界。だから宴会!
私は、対人援助において大切な、「相手の立場に立つ」ことの最大の妨げは、思い込みや勉強不足だと考えています。
介護に限ってみても、思い込みや勉強不足故に、対応に遅れがでる案件は、山ほどあるので、研修では、このことを強調するようにしています。
しかし、「気をつけましょう」だけでは、具体性に乏しいため、多数決の功罪に注目すると良いのではないかと考えました。
多数決は、大いに役立つ反面、とてもお馬鹿なことになる危険性を孕んでいるからです。
たとえば、ある事象の発生確率が10%であることは確実だとしても、「その程度なら心配ない」のか「大いに心配すべきか」、簡単に結論を出せないはずなのに、私たちは、いとも簡単に、「完全に合理的に把握できている」と思い込んで、判断しようとしますから、危なくて仕方ありません。
とくに、本当は合理的だとは言えないのに、合理的だと思い込んだまま、多数決にしてしまう場合は最悪です。
同様の理由から、私は、「公僕」という言葉に違和感を覚えます。
憲法の条文を根拠に、よく「公務員は全体の奉仕者なのであって、一部の奉仕者ではない」とは言いますが、これが完璧に実現されるとは、到底思えないからです。
そもそも、全体と一部や公私を、明確に区別するのは至難の業なのに、「公僕」に対しては、つい100%の完璧さを求めてしまいがちです。どんな名医でも治らない病気のあることは認めているのに、のにです。
冷静に考えれば、むしろ、無理なことを求めた結果、公務員の本音と建前を乖離させ、かえって隠蔽を高めることの方が怖い気がします。北風と太陽の寓話のように、「脱がせたいのに着させてどうする」というのと同じです。
組織であれば、こうなります。上司は部下に、完全合理的なことを求め、部下も上司に完全合理的であることを求める。そして、先輩後輩間でも、同僚間でも然り。ところが、しょせんそれは不可能なので、皆が不満を募らせながら本音と建前が乖離していく。
それでは、どうすれば良いのでしょうか。
私は、北風と太陽の寓話で言えば、相手には、「太陽」的な態度を基調として接すれば良いのではないか、と思います。
社会は、互いの要求や期待を、役割を通して果たし合うことで成立していますが、それは相互のコミュニケーションを通して実現されます。
ですから、コミュニケーションの基調を、「褒める」、「労う」、「教えて貰う」にすれば良いと思うのです。
もちろん、相手に何らかの我慢を求めることもありますが、そんな時には、「他者に我慢を求める最低条件は、相手の立場に立てることだ」と思えば良いのではないでしょうか。
これは、自分に我慢を求める場合にも、当てはまります。つまり、自分の立場に立てることが、最低条件となるわけです。これなら、限界を超えるような我慢を強いずに済みます。
確かに、「自分が自分の立場に立つ」というのは、些か変な感じもしますが、「我が身のことは人に問え」など、自戒の諺は大変多いところをみると、やはり、私たちは、自分を見誤りやすいようなので、「自分が自分の立場に立つ」という考えは、やはり成り立つように思います。
もっとも、私の場合、こうした理屈ではなく、決まって「あーもう限界。だから宴会!」となりますから、とても助かっていますが。