梶川義人の虐待相談の現場から
様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。
- プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)
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日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。
はじめとおわりの取り違え
はじめの言葉とおわりの言葉
私は授業のなかでよく、学生に量的調査と質的調査の必要性を伝えます。もっとも、ここでその違いを説明するのは釈迦に説法なので控えますが、調査にはその目的の違いから、テーマに関する「はじめの言葉」を得ようとするものと、「おわりの言葉」を得ようとするものがあることをご存知でしょうか。
前者は、テーマについてどう調べるかを明らかにするので「はじめの言葉」であり、質的調査で事例を深堀りしたり、量的データを探索的に解析したりします。これに対して後者では、テーマについて何らかの結論を出すので「おわりの言葉」であり、量的調査の結果などによってそれを根拠づけします。
つまり、一口に調査と言っても、前者はおもに相関関係、後者はおもに因果関係を扱うため、かなり大きな違いがあります。このブログ「もっと科学を!」や「ぢっとデジタル庁を見る」でご紹介した、認知症介護研究・研修仙台センター様の「高齢者虐待防止に資する体制整備の状況等に関する調査」は、前者に類すると言えます。
ところで、こうした話をしたのには訳があります。それは、最近続いた事例検討式研修の参加者の反応に、「少し短絡的ではないか」と感じることがあったからです。たとえば、虐待の原因について「認知症の正しい理解がないのが原因だ。だから、正しく理解してもらえば良い」などです。
気になるのは、このブログ「もう一歩前へ」で述べた「隠されたストーリー」が拾われていない点です。多くの虐待者のように「頭では分かっていても心がそれを許さない」など複雑な思いを抱えているなら、「認知症を正しく理解してもらう」を「おわりの言葉」にするのは早過ぎます。
実は、おわりの言葉がはじめの言葉
その事例の娘は、母からの支配的な過干渉を受けて育ちました。ですから主体性は育たず、仕事も結婚も上手くいきません。仕事も結婚も続けるにはそれなりの主体性が必要だからです。
つまり娘は、頭を抑えつけてくる母からの圧を感じながらも抗えず、結局は言いなりになって母にずっと依存し続けたわけです。ところが、高齢となった母が認知症を発症して要介護になると事態は一変します。母娘の力関係が逆転するからです。
娘にすれば、「支配的ではない母になって欲しい」という積年の願いを叶える絶好の機会なのですが、認知症となった母にそれを求めても結果は芳しくありません。それどころか、母はもはや依存先にならず、娘は依存先喪失の危機に陥り不安定化します。
さらに、介護者には本来強い主体性が求められますから、主体性の弱い娘の行う介護の結果も芳しくありません。こうなると娘は、思うに任せないことばかり起きる毎日を過ごすことになります。したがって、その心のコップは「負の水」で今や溢れんばかりです。
そこにきて、いくら正しい知識だとしても、新たに注ぎ入れられるものではありません。むしろ、心のコップに溜まった「負の水」を掻い出すのが先決です。ですから、こちらが本当の「さいごの言葉」であり、「認知症を正しく理解してもらう」のはむしろ「はじめの言葉」なのだと言えます。
「今日までありがとう…」
「おわりの言葉が早すぎる…」