梶川義人の虐待相談の現場から
様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。
- プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)
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日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。
ノーサイド
虐待と文化的な男性像に関係はあるか?
先日、高齢者福祉を専門とする大学教授である先輩のリモート授業にゲスト参加しました。授業の構成は、まず私が高齢者虐待をテーマに講話を行い、先輩や学生と質疑応答するというものでしたが、「男性像」が話題に上りました。
発端は、私が虐待者の続柄が息子と夫を合わせると過半数を占めるとか、虐待者はおしなべて自己肯定感が低いと思われる、と話したことです。「虐待者には自己肯定感の低い男性が多いようだが、それは文化的な男性像と関係があるのだろうか」という話の流れになりました。
たとえば、働いて家族を養うことや、家事をしないなど、周囲から旧来的な男性像の体現を期待され、自分自身でも「そうありたい」と期待しているのに、果たせないと自己肯定感は低下してしまう、と考えるわけです。
過度な期待――理想と現実のギャップ
私は取り立てて、虐待者の自己肯定感の低下に、文化的な男性像が関わるとは考えてこなかったので、新鮮な気持ちになりました。確かに、男性像に対する自他の期待が大きければ、男性像を体現できないときの自己肯定感の低下もまた大きくなりそうです。
丁度「勝ち組女性」や「幸せそうに見える人」を無差別に狙った事件が発生したばかりなので、先に述べた「男性像」をもっと一般化して、理想と現実のギャップの大きさへの反動からの犯行とみると、上手く説明できそうに思えてきます。
現に、犯人と同じく、かつては勉強ができて人気もあり、人から一目置かれていたというエピソードを持つ虐待者もいます。「十で神童、十五で才子、二十過ぎてはただの人」と言われるように、成長するにつれて次第に凡人になっていくことを認められず、親にその責任を転嫁する例などです。
どうやら期待というのもまた、過ぎたるは及ばざるが如しなのかもしれません。
相対評価と絶対評価
もっとも、自分への期待を身の丈にあったものにする、というのはことのほか難しそうです。とかく私たちは「比べたがり屋」で、何かと優劣をつけたがるからです。閉幕した五輪の新聞報道でも、金メダルの選手はカラー写真で、銀メダルや銅メダルの選手はモノクロ写真だったのを思い出します。
しかし一方で、女子バスケットボールの表彰式後の記念写真の撮影風景も、強く印象に残りました。日本人選手の呼びかけをきっかけに、金銀銅メダルをとったチームが混ざり合い、コート上の敵味方関係なく皆が満面の笑顔で撮影していたからです。それはまさに、ラグビーで言う「ノーサイド」の風景そのものです。
試合が終われば文字通り、敵と味方や勝者と敗者の区別はなくなり、お互いの健闘を讃えあう、といったところでしょうが、「このノーサイドの姿までを観にないと観戦は完結しない」とさえ言いたくなります。勝負を相対評価、ノーサイドを絶対評価だとすれば、相対評価と絶対評価は本来、セットになっていないとバランスが悪いのかもしれません。
「絶対、評価は上がりますから!」
「相対的に押しが強過ぎ…」