梶川義人の虐待相談の現場から
様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。
- プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)
-
日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。
家滅の刃(かめつのやいば)
コロナ禍であれこれ「リモート」になりもうすぐ1年。「やっと対面による研修が再開されはじめたかな」と思った矢先に「第三波」ですから、まったく「何だかなぁ」ですが、研修へのご要望にも「コロナ禍の影響は?」が増えました。
確かに、人目のない環境のなかで虐待者と被虐待者が密接する好発の構図は整いやすくなります。加えて、何かと鬱憤は溜まりやすいのですから、虐待発生の危険も高まります。それなのに、効果的な打開策は思い浮かばず、心のコップの水を掻い出す(表現する)ようおすすめするだけなので、隔靴掻痒の感を強めています。
私は最近、日記や出すあてのない手紙に心情をつづることで、自分の望みが満たされずに心(コップ)に溜まる鬱憤(水)を掻い出す方法をおすすめしていますが、別のアプローチもありそうです。自分の「望み」について、本当に求めるに値するのか見直す方法です。期待外れになりにくい「望み」なら鬱憤も溜まりにくかろう、という発想です。
ところで、虐待は、家族同士や利用者と従事者、従業員と使用者の間で発生しますが、皆が他者に対して抱く「望み」とは一体どのようなものなのでしょうか。とくに気になるのは家族像に由来する「望み」です。戦後、わが国は経済面にばかり目を向け、新たな家族のあり方に関する議論が不十分なままだと思うからです。
「虐待者のマスオさん、大いに語る」などでも述べましたが、私は、社会の基礎単位(土台)である家族のあり方について、イエ制度という堅牢な土台が崩れたのに、そのまま経済的豊かさという名の「立派な御殿」を建て続けたため、夫婦(恋人)関係、子育て、教育、介護などにおける社会問題という名の「液状化現象」が起きている、とみています。
思えば私達の思い描く「家族像」には、今でもイエ制度など旧態然としたものが投影されています。「嫁にやる」とか「嫁をもらう」とか、「父親らしく」とか「母親らしく」とか、「長子のくせに」とか「末っ子のくせに」とか。ジェンダーが絡むとさらに旧態然として、「男のくせに」と「女のくせに」のオンパレードです。
むろん私達は、望ましい家族像をすぐには入手できません。多くの議論を経たうえで社会的合意を得ないといけないからです。それなりに長い時間が必要でしょうからその間は、無検証のまま過去を引きづらないよう、十分に注意していきたいものです。
そうしないと、無用の負担や期待外れを招き続ける羽目になります。事実、家族による虐待の事例の多くでは、典型的な失敗を積み重ねています。家族員同士の要求・期待が上手く噛み合わず、肝心の発達と保護のバランスが崩れていたり、夫婦や親子や同胞は「こうあるべきだ」と(多くは旧態然とした)型にはめて再統合を試みてこじれたり、です。
今のところ支援者は、虐待問題の、その家族のあり方を厳しく問い詰める「家滅の刃」としての側面をふまえ、事例対応は「望ましい家族のあり方を探る良い機会」だと考えておくと無難かもしれません。
「そこまでいかなくても…」