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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

物語で評価、脚本で支援、子どもの絵で報道

 先日、盟友である埼玉大学の宗澤忠雄先生から電話を頂きました。新型コロナ禍でここ数ヶ月、定例の研究会(大抵は飲み会ですが)を開催できずにいたので、とても嬉しく感じました。冗談はともかく、先生からのお話は、「虐待問題の『報道ガイドライン』について考えてみたい」というものでした。

 私は内心「我が意を得たり」とばかりに乗り気になりました。というのも、前回のブログで取り上げた事例でも、単純に「性愛に溺れた不埒で鬼のような母親」であるという報道がある一方、母親自身が被虐待児であった生活歴を丹念に追い、「同じ体験をしていたら自分も同じようなことをしたかもしれない」と思わせるような報道もあったからです。

 むろん、捉え方はいろいろあって然るべきです。しかし、そのままにしておいて良いのでしょうか。報道は、接する人々に対して誘導せずに真実を伝え、その忌憚のない評価を通し、皆がことの本質を共有していくのが本筋なのに、それは案外難しくて、「本質もどき」が共有されてしまうことはないでしょうか。

 たとえば、犯罪については「動機と機会と方法」が重視されますが、私は、それだけでは不十分だと考えます。真実はたった1つなのに、被害者と加害者と対応する者と一般市民、おもに4つの見方に引っ張られて、「あたかも、たった1つの真実であるかのように」ことが動いていくからです。

 「あたかも」と「かのように」のまま情報が拡散し続けると、下手をすれば「真実」とは名ばかりで流言飛語と何ら変わりません。ですから、犯罪と似た様相のある虐待問題について、何をどう伝えれば良いか、報道における何らかのガイドラインが必要だと思うのです。

 私は、映画監督の大林宣彦氏がテレビ番組で、ご自分の映画づくりを、パブロ・ピカソの無差別爆撃をテーマにした「ゲルニカ」に例えて話しておられたことを思い出します。「写実的な描き方なら、目を背けられるか一過性の衝撃で終わる。しかし、子どものような描き方だからこそ、見た者は目を背けず深く考えるので、ピカソの心の真実が伝わる」という主旨のお話です。

 画家の岡本太郎氏も生前、「綺麗と美しいは違う」と発言しておられました。「綺麗とは世間の求める基準に従ったものだが、美しいとは『これはなんだ!』という、言葉にならない画家の心の真実だ」という意味だと思います。ですから、綺麗ではないが美しい「醜悪美」もあり得るというわけですが、何やら、下ネタ大好きの男子小学生を彷彿とさせなはしないでしょうか。

 こう考えると私は、虐待のような人身安全関連事案に関する報道にも、子どもの絵のような訴求力や醜悪美のような奥深さを求めたくなります。具体的に何をどうすれば良いのか問われると困りますが、宗澤先生とのお話がどう展開するか、今からとても楽しみです。

「虐待事例増加警報発令!」
「頼むから別の方法で…」

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