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梶川義人の虐待相談の現場から

梶川 義人 (かじかわ よしと)

様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。

プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)

日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。

「当たり前」は実現しなくて当たり前!?

 「介護の現場では介護はキチンと行われている」。そう聞いて、「それは素晴らしい」と言う従事者は少ないと思います。大半は「出来て当然」とか「やって当然」と思うのではないでしょうか。しかし私は、「ひょっとしたら、当たり前ではないかもしれない」という気がしてきました。

 というのも、新型コロナウイルス関連のニュースには、誰もが出来たりやったりして当然と思うことが多いのに、それが「〇〇出来ずにいる」とか「〇〇されていない」というものが余りにも多いからです。そこで、我が身を振り返ってみました。

 たとえば、健康でいるためには適切な食事と適度な運動が必要ですが、それが当たり前にできていたら、私は生活習慣病にならなかったでしょう。妻に対する当たり前のいたわりやねぎらいの姿勢があれば、何度も妻のご機嫌を損なわずに済んだでしょう。

 また、やって当たり前の勉強をしていたら、もっとハイレベルの学校に入学できていたでしょうし、当たり前の節約が出来ていたなら、貯金額は今よりずっと多かったでしょう。

 虐待などの人身安全関連事案も、他者にしてはいけないのは当たり前なのに、それが守られないので社会問題化しています。こうなると、私たちは、当たり前のことを出来なくてもしなくても、むしろそれが当然なのだ、とさえ思えてきます。

 ところで、折しもオリンピックの東京大会目前。代表選手ともなれば、人一倍才能があったり努力をした人たちだろう、というイメージがあります。しかし、「当たり前のことを当たり前に出来たか、した人たち」だとみることはできないでしょうか。

 私は子どもの頃、スイミングスクールの選手コースに通っていました。言うまでもなくポンコツ選手だったのですが、才能云々の前に、当たり前のことが当たり前に出来なかったし、しなかったゆえにポンコツだったように思います。

 こう考えると、「才能なし」と一刀両断されるより少しは救われた気がします。いわゆる「やれば出来る子」のようなものでしょうか。ところが、「やれば出来る子」は「やっても出来ない子」より質は悪いのです。

 自分の頭で考えて判断し、行動するという主体性を発揮していないからです。これまで何度も述べてきたように、私たちにとって、自らが主体性を発揮することはとても大きな意味を持っています(「主体性の強化トレーニング」「可愛い子の旅にレールを敷く」など)。

 それをしないので質が悪い、というわけですが、実は、当たり前のことをするための絶対条件は、主体性の発揮なのかもしれません。そして、新型コロナウイルス対策において問われるのは人間の主体性の発揮なのだとも思います。

 ですから、「キチンとした介護が行われている介護の現場は素晴らしい」と言っても良いのではないでしょうか。

「普通の幸せで十分なのに…」
「それが案外難しい!」