梶川義人の虐待相談の現場から
様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。
- プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)
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日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。
ある虐待介護士の物語(フィクションです)
彼の父親は結婚に乗り気ではありませんでしたが、母親が彼を妊娠したため、仕方なく結婚しました。母親は、父親が乗り気でないと知っていましたが、生まれてくる彼が「かすがい」になると期待して結婚しました。
ところが父親は、彼に関心を持てず、子育てに協力する気にもなれません。母親は、そんな父親をなじり、喧嘩が絶えなくなって、結局、彼が3歳のとき協議離婚しました。離婚後は、母親が彼を引き取ったのですが、両親の猛反対を押し切って結婚した手前、助けは求められません。母親は、仕事に、子育てに、と孤軍奮闘して疲労困憊の毎日を過ごします。
そんなとき、母親は、彼の父親が離婚後半年もたたずして結婚し、今は幸せに暮らしていることを知ります。そして、父親の不実さへの腹立ちや、父親だけが幸せになっていることへの嫉妬を抑えられません。
そのせいか母親は、成長するにつれ父親に似てくる彼に、父親の面影を重ねて苛立ちを募らせます。また、反抗期を迎えた彼の態度は、「成績も振るわないくせに反抗だけは一人前だ」と映り、きつく叱責するようになります。
彼も負けじと反発するため、母子の葛藤は強まり、ついに母親は「お前なんか産まなければ良かった!」と吐き捨てます。こうして彼は、父親にとっても母親にとっても不要な存在になりました。
彼の心は「無償の愛」とはかけ離れた環境のなかで凍えきっていき、小学校では衆目を集めるため大げさな話をするようになります。そのため「嘘つき」と呼ばれて友達はできません。酷くはないものの一時期いじめの標的にもなりました。
その後彼は、中学・高校時代を孤独なものの大過なく過ごし、高校生のとき参加したボランティア活動で感動的な体験をします。車椅子を押して介助したお年寄りから「本当に有難う!」と感謝されたのです。
これまでの育ち方を思えば、この「有難う」の一言はどんなに彼の励ましになったことでしょう。果たして彼は、介護の仕事に就こうと思い立ち、専門学校を卒業後、念願の介護の仕事に就きます。
母親も彼の就職を喜びましたし、彼自身も「母にも少しは認められた」と思い、将来に期待を寄せます。ところが、彼の勤務先の施設には、興奮・攻撃性の強い利用者が多く、苦労は絶えません。しかも、先輩職員はろくに仕事を教えてくれず、仕事の遅さやしくじりを厳しく叱責するばかりです。
それでも忍耐強い彼が、1年間耐えに耐えて頑張り通した頃、利用者のAさんが入所します。職員を召使い扱いし、正当なお願いでも拒否する一方、何か上手くいかないと尽く職員のせいにして責め立てます。
その日彼は、Aさんに「この役立たずが!」と怒鳴られ足で蹴られます。よろけて床に手をついて見上げたその先には、意地悪く冷笑するAさんがいました。彼が我に返ったのは、Aさんの顔面を思い切り殴打した後でした。
私たちは、いつ何をどうすれば彼を救えたのでしょうか。
「ままならないと言いたい?」