梶川義人の虐待相談の現場から
様々な要素が絡み合って発生する福祉現場での「虐待」。
長年の経験から得られた梶川さんの現場の言葉をお届けします。
- プロフィール梶川 義人 (かじかわ よしと)
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日本虐待防止研究・研修センター代表、桜美林大学・淑徳大学短期大学部兼任講師。
対応困難事例、家族問題担当ソーシャルワーカーとして約20年間、特別養護老人ホームの業務アドバイザーを約10年間務める。2000年から日本高齢者虐待防止センターの活動に参加し、高齢者虐待に関する研究、実践、教育に取り組む。自治体の高齢者虐待防止に関する委員会委員や対応チームのスーパーバイザーを歴任。著書に、『高齢者虐待防止トレーニングブック-発見・援助から予防まで』(共著、中央法規出版)、『介護サービスの基礎知識』(共著、自由国民社)、『障害者虐待』(共著、中央法規出版)などがある。
改めて問う。「介護とは何ぞや?」
4月11日付け朝日新聞朝刊に「高齢者虐待の疑い1500施設」という記事が載りました。ある特定非営利活動法人の行った郵送調査によると、2012年から2014年の3年間に、虐待ないしその疑いがあったと解答した、全国の介護保険施設や療養型病床病院などは1500施設以上にのぼったそうです。
有効回答率3割以下なのに、これだけの数に及ぶのですから、通報されていない事例は少なくないのだと思います。しかし、何故こんなに多発するのでしょうか。
一般的に、人手不足については、よく指摘されています。では、本当に人手さえ足りれば虐待は起こらないのでしょうか。
この記事には、私のコメントも載せて頂いているのですが、私は、人手など量的な側面が満たされてもなお残る、組織のあり方等、質的な側面についても考える必要があると思います。不当な身体拘束の場合は、従事者が個人的に行うとは考えにくいですし、現に、複数の職員が虐待を行っている例も少なくはないからです。
そして、私は、質的な側面のキーワードは「科学的なケアの追求」であり、この気風の減退が、独善的で安易なケアを選びやすくする、と考えます。不当な身体拘束はその典型ですし、「事故防止」や「治療のため」という免罪符もつきものです。
もっとも、介護の現場には、科学的なケアの追求を避けて免罪符が欲しくなる事情があるのだと思います。
たとえば、攻撃的な認知症者への対応は、ときには受傷も覚悟をするほど緊張したものになります。ですから、上手くいかなかったとき、「認知症だから仕方がない」とか「たまたま対応を誤っただけ」として片付けた方が、緊張から解かれて早く楽になれます。
そこを踏みとどまって、何らかの法則性やパターンは見いだせないか探る姿勢を保ち、記録についても、対応の機序を上手く説明するために、必要なデータを蓄積しているのだ、と捉えられるようになるには、年単位の経験が必要です。
ところが、そうしたところで、かえって忙しくなるだけで賃金も上がらないのだとしたら、「何も考えずにやり過ごした方が得策」という人も出てきます。非正規雇用化やマニュアル化が進むなか、場合によっては、こちらの道を歩むほうが、むしろ賢いとさえ言えるのかもしれません。
かくて、同じような対応の失敗は繰り返されますし、「尊いお仕事」という美辞麗句に辟易としながら、「心頭滅却すれば火もまた涼し」よろしく、精神論で耐える以外なくなります。これでは、免罪符の甘い罠にはまって負のスパイラルに陥ろうというものです。
したがって、不当な身体拘束や虐待の発生予防には、人手不足の解消のみならず、科学的なケア追求に向けた動機づけが、必要不可欠だと考えるわけです。
なお、ここでいう「科学的」には、自然科学のみならず、人文科学や社会科学の視点も含まれていることを付言したいと思います。
社会的合意の得られていない生老病死の難問に、日常的に向きあうことを求められるプロの介護は、総合科学の到達点の一つであり、賃金・待遇面も含めれば、その社会の文化水準を象徴しているため、この点への配慮を欠けば、実効あるインセンティブ策は案出できないからです。
インセンティブは難しい!?