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ルポ・いのちの糧となる「食事」

下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

食べること、好きですか? 食いしん坊な私は、食べることが辛く、苦しい場合があるなんて考えたことがありませんでした。けれどそれは自分や身近な人が病気になったり、老い衰えたりしたとき、誰にも、ふいに起こり得ることでした。そこで「介護食」と「終末期の食事」にまつわる取り組みをルポすることにしました。

プロフィール下平貴子(出版プロデューサー・ライター)

出版社勤務を経て、1994年より公衆衛生並びに健康・美容分野の書籍、雑誌の企画編集を行うチームSAMOA主宰。構成した近著は「疲れない身体の作り方」(小笠原清基著)、「精神科医が教える『うつ』を自分で治す本」(宮島賢也著)、ほか。書籍外では、企業広報誌、ウェブサイト等に健康情報連載。

第66回 食べることを支える医療・介護
身近での広がりを願って(前編)

はじめに

 食べることを支える取り組みがより普及し、必要とする人すべてに届くために、「食べる」という日常のことを見守り、ケアに当たる人はどうしたらより増えるだろう。医療・介護の内外に。暮らす町やふるさとの町に。
 連載を始めたいと思って以降、取材の中で考えてきました。
 そもそも40代の友が病気によって20kg、30kgも痩せ、たて続けに亡くなったとき、先進医療を受ける中で、なぜ飢餓状態のようになって亡くなるのか、疑問を持ったことがきっかけでした。病気のせい、それだけだろうか。食べられなくなったとき、食べることを支えてくれる人はどこにいるのか。
 しかし取材や生活を通じてすこし思い直したので、連載開始1年半の節目にそのことを書いておきます。

食支援を広く知ってもらう
そのための反省とトライ

 この連載を始めてから、食べることを支える取り組みについてさまざまな情報を得る機会に恵まれています。実のある取り組みが全国で行われていて、もっと各地のさまざまなケースを取材に行きたいけれど、とても追いつきません。
 また、多くの取り組みの背景にはさまざまなエビデンスと、医療・介護の現場で働く人たちの「支える必要がある」という実感、情熱があることも知りました。
 そこで、とくに中年以降、折々で食と生活を見直す必要があることや、食べる意味、食に関する健康被害などについて学び、生命を健やかに保ち、幸せであるために「食」がどれほど大事なことか思い知らされ、考えさせられています。
 しかし、筆者も取材以前はこれほど食支援を必要とする人がいること、食支援が行われていることを知りませんでした。同様に、多くの一般の人はまだそれを知りません。
 いろんな食と健康づくりのブーム、ダイエット情報、各地の美味・美食に関心があります。
 食べられなくなることや、そうなってしまって起こる健康被害の連鎖などは、とくに知りたくない。なるべく考えたくない。自分や家族、友人の問題になって困るまで考え及ばない人が多いでしょう。
 とくに、食べることは日常のことで、トピックス以外はほとんど注目されません。出版や報道も、情報の受け手のウケがいいトピックスを中心に伝えます。インターネットが普及してからは「内容より表現」という志向も強くなりました。
 過日、延命治療の例として「経管栄養(胃ろう)」を取り上げ、体が栄養を受けつけない状態になっている高齢者に対して栄養補給をいつまで続け、いつ胃ろうを外すのが適切か、多死社会を迎えて「延命治療」について新たな議論と社会の合意が必要だと問題提起するテレビ番組を見ました。
 終末期には胃ろうを外すことも含め、それまで行っていた治療を見直すことが、緩和ケアとして理に適う選択となる場合もあること。一般の人もターミナルケアについて理解し、自分の死生観をもち、看取り文化をつくる必要があることなど番組が「結論」としていたこと、それには概ね異論はありませんでした。しかし、栄養をとる、減らす…という話の中に、一言も「(口から)食べる」ことの意味について触れられなかったことは残念でした。
 胃ろうが高齢者だけに施される治療ではないこと、胃ろうになっても経口と併用する人も多く、経口に戻るケアがあることも伝えられませんでした。
 これでは、経管栄養は「治療」ではなく「延命措置」と誤解されないだろうか。「経管栄養になったら二度と口から食べられない」「経管栄養になったら死が近い」などと早合点する人はいないだろうか。「延命治療」の例として、“長年の「胃ろう」での暮らし”は適当なんだろうか。
 長い胃ろうでの生活が体の負担になっているケースには「そうなる前」と「しかるべき経過」があったはずです。栄養の話、治療の話、生命の話としては、大切なところです。口から食べるためのケア、口から食べる意味も、伝えてほしいと思いました。
 高齢者の延命治療と、本人に代わって意思決定をする家族の苦悶に的をしぼる必要があったためとは思うものの、制作者が意図した結論を前提にされ過ぎているのではないか、とも感じました。
「口から食べることを粗末にしている」。取材で食支援の先駆者が語った言葉が思い出され、食べることを支える取り組みに携わる人を多く知る今、筆者は歯がゆさを覚えたのです。
 放送時間に限りがある中では、伝えられることにも限りがある。それは、掲載できる文字量には限りがあり、伝えられることにも限りがある出版も同じ。もっと丁寧に扱わなければならないとなると、なかなか扱えない。そうなってしまうと「食べられなくなることがある」ことを知らせる機会が少なくなってしまいます。悩ましい。
 出版や報道がトピックスの顔をして大事なことを伝える機会を創造する。トピックスの中で「食べられなくなることがある」と知られるのはよいこと。ただし相当な取材が必要。大変に難しい。
 それでもトピックスに感じるショックが一過性のもので終わらず、食と生活の見直しにつながるように、出版や報道はもっと工夫しなければなりません。
 「食べる意味」「食べることを支える取り組み」がもっと取り上げられるべきテーマです。それが筆者にも課題です。テレビ番組は、そうでないと「食べることを支える取り組み」の普及を阻む危険があると省みるきっかけになりました。
 反省と、トライ。地道に食支援を広げ、携わる人に見習って、私も地道に、実のある情報を伝える仕事をもっと創造していかなければ。食支援のトップランナーの一般向け書籍の制作に関わりたいです。本当に必要だと感じています。

 次回は、後編を掲載します。