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私はこうして合格しました!

国家試験を突破して精神保健福祉士の資格を取得した合格者の皆さんに、合格までの道のりをご紹介いただきます。効果的な勉強法や忙しいなかでの時間のつくり方、実際に資格を手にして思うことなど、受験者が参考にしたい話が満載です。

第47回 船山敏一(ふなやま・としかず)さん

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プロフィール

船山敏一(ふなやま・としかず)さん
平成14年度試験合格

 関東学院大学文学部英米文学科卒。神奈川県藤沢市出身。中学から高校初期にかけてヤンチャな時代を過ごし、退学も寸前まで来たところで自分探しへと単身アメリカ・テキサス州に渡った。1年過ごし、帰国したときに胸に抱いていたのは、過去の反省とともに「人へ何かを伝える仕事をしたい」との思い。学校の先生を志して進学し、教職課程へと進むが、教育実習の折、熱い気持ちを自認もする分、素行の悪い生徒への指導が行き過ぎてしまうことを直感し、教え子といくぶん距離をとれる塾の先生になった。その1年後だった。妹が当時勤めていた身体障害者の施設へ手伝いに行き、そこで出会った障害当事者の生きざまに惹かれた。「不便なとこいっぱいあるけど、一所懸命生きている。目がキラキラしている」。“なんかいい”と、それは漠然とした感覚だったが、2か月後には転身を決意。精神障害者の家族会を母体とする「藤沢ひまわり会」(現・社会福祉法人藤沢ひまわり)に入職した。精神保健福祉士の資格取得を考えたのは2年ほど経ってから。病気のことや制度のことなど、体系的に学ばなければ利用者の本当の支えになれないと思った。実務5年の経験を蓄えて、第5回(平成14年度)試験を受験。無事に合格をはたした。現在、法人が運営する就労移行支援、就労継続支援B型、地域活動支援センターIII型など各地域事業所を統括する。趣味はガンプラ(ガンダムのプラモデル)、なかでも好きなのは“3倍速く動ける”シャア・ザク。きらいなものはキュウリ。「地元・藤沢を愛している」と言い、生まれ育った地のネットワークで仕事をするのが信条。“兄貴”な雰囲気がカッコいい42歳。

受験の動機

 仕事をしていくなかで、やっぱり資格は必要だと思いました。自分のカンとセンスだけでやるのは限界があると思ったのは、勤め始めて2年目くらいです。1年目というのは、目の前にあることをこなすのでいっぱいで、余裕はなかったです。それが少し落ち着いてきて、薬のこととか年金のこととか利用者さんから訊かれたときに、「本にはこう書いてあるけどね」程度のことしかいつまでも言えない自分自身に、これじゃあダメだと思ったのが発端です。利用者さんはこちらがわかっていると思っていろいろ話をしてくれるのに、それに応えられないのは職務の怠慢だと。自分が知らないことによって、利用者が不利益をこうむることはあってはならない、このままではいい支援ができないと思いました。

 ちょうど精神保健福祉士の資格ができて間もない頃で、機運も追い風、よし勉強しようと心に決めました。私の場合、福祉系大学の卒業ではなかったため、また仕事をしながら資格を目指す形でもあったため、通信教育課程の2年コースに入学して受験資格を手にしました。当時は今とは試験科目の構成が違っていますし、過去問や模擬問題など便利な受験対策ツールもなかった時代ですから、今のオーソドックスな勉強方法とは少し違うかもしれません。振り返ってみると、けっこう工夫してやってたなとか、仲間の存在は大きかったなとか、いろいろよぎるものがあります。ざっくばらんにお話しいたしましょう。

作業の現場に入ってメンバーさんと談笑。
「(管理業務より)こっちが楽しい」と船山さん

「ドラ焼きの会」を結成

 “ドラ焼き”は、私の好きなドラえもんにちなんで付けました。理由を訊かれると困るのですが、ほのぼのとしたイメージになっていいなというそれくらいです。参加メンバーは、精神保健福祉士の受験を予定している地域(藤沢市とその周辺)の仲間で、就労の事業所や地域生活支援センター(現在の地活)、病院のワーカーなど。すでに社会福祉士を持っているのもいて、いろんな専門性、いろんな視点を持った面々でした。

 実はいきなりこれを立ち上げたというよりは、そのベースになるような会がありました。「ヤングスタッフサポートネットワーク」、通称YSSNという、比較的若い福祉関係者の交流を目的とした集まりで、要は飲み会です。当時、ワーカーの離職者が多いのをさびしく感じていて、同じ仕事をしている仲間同士、気持ちの面で支えあえたらと始めたものです。近い年代、似たような経験の人間が集まっていたことから、精神保健福祉士の受験を考えている人も多く、ここから受験に特化して、他にいる受験予定者も加えて勉強会にしたのが「ドラ焼きの会」です。立ち上げたのは国家試験の前年、人数は10名ちょっとと記憶しています。

問題を作って出し合う

 何をやったかというと、自分たちで問題を作り、それを持ち寄って出し合うということをしました。感覚的に、問題を解く形式の勉強がしたい、学習効果も高そうだとの読みもあったのですが、当時はまだ国家試験の実施回数が少なく、出題傾向のようなものを教えてくれる参考書はありませんでしたし、過去問を数年分やってそれで十分とも思えませんでした。それなら自分たちで問題を作ってしまおうという発想です。

 すでに資格を取っている先輩たちに、どういう問題が出そうかを訊いたりして、1人あたり20問など決めて問題を持ち寄りました。10人集まれば200問です。持ち寄るとそれはそれで発見があって、こんな問題出ないよとか、作成してきた問題のテーマや内容が重なると、おおこれは出そうだとか、よく考えればまったく根拠がないことも手掛かりにしながら進めていきました。

 そのときのブーム、トレンドにかかわる情報のやりとりもなかなか有用でした。当時はキーワードとして、主体性とかバイステックとか共感・傾聴とか、自己決定系のワードが“流行り”というと変ですが、脚光を浴びていました。問題の予想的な視点も加わって、オレたちいけそうだなと、よくわからない自信も結果的にプラスに働きました。

 みんな仕事をしていましたから、勉強会は夕方6時から8時くらいまでの2時間、頻度は2週間に1回でした。当時できたばかりの地域生活支援センター内に500円で借りられる部屋があって、集まるのはそこと決まっていました。受験勉強の後半は集まる頻度を増やして、試験終わったらみんなで飲もうと声をかけあって、モチベーションの面でも大いに支えあいました。受験勉強のいちばんのポイントといったら、間違いなく「ドラ焼きの会」でしょう。

日常業務との関連づけで整った

 基本的な知識を習得する勉強、自分一人でこつこつと行う勉強もわりと真面目にやっていました。私の場合、現場の実務のなかで利用者さんにきちんと対応できないという現実的な問題意識に背中を押されて資格取得を志していたこともあって、どのような知識も自分の業務に関連づけて考えていくことを自然としていました。その科目、その項目はなんのために学ぶんだろうということをけっこう意識していたと思います。

 ただ、実際に勉強をしてみて思ったのは、精神の専門科目については、自分で思っていた以上にわかっていることが多く、それほど根を詰めて勉強する必要はなさそうだということでした。個々の場面で利用者さんへの情報提供などが十分ではなかったにしても、その状況のなかでどういう制度が使えるだろう、どんな社会資源があるだろうと考えるのは日常の業務そのもので、状況によっては「これ使えるのではないか」と制度の解釈の仕方を行政に提案してサービス利用につなげるようなこともしていたわけで、それは前提として、制度の中身に精通していなければできないことでした。

 援助技術に関する知識も同様で、特に生活支援にかかわる事柄は業務とのつながりで確認でき、受験対策用にまとめられた情報を見て頭の中が整理されるくらいの学習で済みました。もちろん、新たにおぼえる内容も多くありましたが、インプットのされ方が格段にスムーズでした。あいまいな知識にとどまっていた精神疾患の知識、薬の知識は、理解が正確になり、それらの知識も医師がどういう意図をもってその薬を処方しているのかをうかがいしる形へと、日常業務のなかに昇華させていきました。

 振り返ってみても、専門科目については苦労をした実感はなく、受験勉強の半ばで専門科目は大丈夫との手応えをおそらくもっていたと思います。

助け舟は完全無欠の合格ノート

 一方、共通科目はそれなりに苦労も努力もしました。勉強の仕方としては、「ドラ焼きの会」で作った問題や過去問などをまず解いてみて、間違えた問題や解答は合っていたけど理解が浅い問題について、解答の解説文や関係法令や関係する文献を徹底的に読むということをしました。なぜ間違えたのかもそうですが、その問題の意味がわからないと話にならないので、そこまで戻ってからの学習が必要な内容については調べ、暗記が必要であれば丸覚えもしました。

 そんななかで助かったのは、前年度に合格した仲間が持っていたノートでした。とても頭がよかった彼女は資格取得後、現場で1年働いて寿退職することになり、その折に受験勉強に使ってと、各試験科目のポイントを見事にまとめあげたノートを提供してくれたのでした。このノートは彼女の名字をとった通称「○○ノート」として、仲間内で広く配布されました。いうまでもなくノートは役立ち、ノートは今も同期受験生の宝としてわが家に眠っています。

 寿=結婚といえば、私はその年の12月に結婚していて、本来であれば受験勉強に最も力を注ぐはずの時期におめでたい感じが合わさって、うれしいことではあったのですが、時間をつくりづらい状況になっていました。勉強する時間は、平日は少しでいいから毎日、土日はできるだけ多めにと、分量は決めずにやっていたらほとんど進まず、さすがにこれはまずいと、正月から2週間は本気になりました。あれは修羅場でした。

静かに押し寄せてきた感動、安堵

 試験初日は、専門科目と共通科目の試験日を間違えるというしくじりがありました。試験会場に着いて、周りがみんな専門科目の本を持っているのを見て、よっぽど専門科目できないんだな、明日の準備もうしてらと思ったのもつかの間、どうも様子がおかしいと思って別の試験会場の仲間に電話をすると、「何言っちゃってんの、専門だよ」と言われ、瞬間的にはもうダメかと思いました。でもすぐに、専門ならなんとかなるかと気を取り直し、出来栄えも上々。2日目の共通科目も、まあいけただろうとの手応えがありました。

 合格発表は、はじめ自分で見るつもりでしたが、午後の2時過ぎに施設長から電話がかかってきて、今すぐ受験番号を言いなさいとのこと。番号を伝えると電話越しに、なんかそんな番号ありますけどと聞こえてきました。合格はもっと感動的なシーンを想像していて、その場は肩を落としましたが、あとからジワジワとうれしさが押し寄せてきました。終わってよかったというのが率直な感想でした。

 就労支援に携わって18年になります。数えるともうそんなかという感じで、自分ではすごく若いと思っていますが、そろそろ次の世代をちゃんと育てていくことをしていきたいと思っています。自分を育ててくれた藤沢の地で、人とのつながりを大切にして、この仕事の魅力を下の世代に伝えていきたい、生活しづらい人が少なくなるような地域社会の一助になりたい、そんなふうに考えています。

「藤沢ひまわり」のスタッフの皆さん。
就労支援の心と技を蓄積する事業所が誇る精鋭たち