第42回 映画語
映画の世界というのは独特だと思います。
私は生まれた時から映画スターの娘で、我が家には、映画スター、監督、スタッフの方々が集まっていました。
母に撮影所に連れて行ってもらった時のことです。
現場で、監督、照明部、録音部、制作部、その他のスタッフの方々の怒鳴り合う声・・・
そう。それは、我が家でもそうでした。映画の役柄のまま、たまに家に現れる父。その悪役の父は、いつも大きな声で怒鳴っていました。
私はその怒鳴っている声、音が怖くて、トラウマになりました。
しかし、後に、その怒鳴り声は“映画語”という言葉だと勝手に決め、理解しようと努力しましたが・・・
先日、撮影監督の安藤庄平氏の偲ぶ会に父と行きました。
皆さん、厳しい方だったと。そして、彼も厳しい姫田真佐久撮影監督の下で学び、やがて一本立ちしたそうです。
安藤庄平氏が姫田真佐久撮影監督の下でおやりになっていた頃の山﨑徳次郎監督作品『海を渡る波止場の風』(’60年、日活)、野口晴康監督作品『拳銃無頼帖 流れ者の群れ』(’65年、日活)に、父は出演しています。そして、安藤氏が一本立ちされ、安藤庄平撮影監督になられてからの作品、江崎実生監督作品『七人の野獣 血の宣告』(’67年、日活)、『黄金の野郎ども』(’67年、日活)にも、宍戸錠は出演しました。
私は藤田敏八監督作品『スローなブギにしてくれ』(’81年、東映)の絵(映像)に衝撃を受けた覚えがあります。
そんな安藤庄平撮影監督を、彼の下で勉強された三池崇史監督をはじめとする発起人の方々が偲ぶ会が開かれ、そこで、映画界独特の上下関係、先輩の怒鳴り声で後輩は育ち、受け継ぎ、新たな作品が生まれるのだなあと、皆さんのスピーチを聞いて感じました。
皆さんの前に出て、「音を下げろ!!」(BGMの音)と、一発、噛ました父。
まだまだ、映画語を使ってます。
でも、以前のトラウマは私から消え去り、どうやら映画語が心地よく聞こえるようになってきたようです。
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