第40回 次は国産車?!
小学生、中学生の頃、父の車が学校に横着けになると、私はお腹が急に痛くなって学校を早退しました。
車好きの父は、今まで何台の車に乗ったことでしょう・・・
そう、盛んな時期は3ヶ月に一回は、新しい車で学校に現れました。
父が幼い頃、日本が戦争でアメリカに負けてから、アメリカへの憧れを強く抱いた父は、ずっとアメ車に乗ってきました。
そして、朝からステーキ(いわゆるモーニングステーキ)を食べ、ビールを飲み、ジーンズを穿き、ハーシー・チョコレートは、いつも冷蔵庫の中に入っていました。
まさにアメリカン・ドリーム。
日活でスターの仲間入りをした父は、次々に車を乗り換えていきました。
そして、車を換える度に、家族を乗せて第三京浜を飛ばし、横浜の中華街へ行くのが定番でした。
時にはオープンカーやジープで高速を走りました。が、しかし、私はしっかりとドアのバーを握り、吹き飛ばされないよう、目にゴミが入らないよう、必死の思いで父のドライブに付きあった記憶もあります。
父は殆どアメ車しか乗りませんでした。なかでも、キャデラックがお気に入りで何台も同じ車を乗っていました。
そして、母も免許を取り、ヨーロッパの車も我が家にやってきましたが・・・
つまり、殆ど外車ばかり乗ってきた訳です。
ですから、私も左ハンドルの車に慣れているので、右ハンドルは怖くて運転出来ないようになってしまいました。
父がいた頃の日活は、今の芸能界のように、マネージャー、ドライバー、お付きの方々が運転して撮影現場に行くのではなく、俳優さんたちが自らハンドルを握り、撮影所に通られていたそうです。
ですから、日活を出てからも殆ど自分で運転をして、ロケ現場へ行っていました。
ところが、ここ最近はドライバーの後部座席に座っています。
私もよく、父を乗せて出掛けますが、後ろから、「もっと左に寄れ!」だの、「そういう時は止まらないでいっちゃうんだ!」とか、車庫入れの時など、「オレが見ててやるから・・・」と言い、指示に従っていると、たまにぶつかりそうなってしまったり。
黙っていてほしいのですが、父は後部座席でも気持ちは常にハンドルを握っている状態のようなのです。
思えば、私が免許を取る際、朝まで試験勉強を手伝ってくれた父。
「寝ないで朝まで勉強しろ!」
「オマエは寝たら忘れちゃうからギリギリまで勉強して寝ないで行け!!」
そして、見事に試験場で私は自分の受験番号を合格掲示板で確認することが出来ました。が、その後、寝不足だった為、保健室へ運ばれてしまいましたが・・・
まあ、父のお蔭で免許が取れた訳ですから、後部座席のうるさい注意はありがたいと思いつつ、ラップのように軽く聞き流してもいます。(笑)
そんな車好き、運転好きの父が、今、首都高のブログを書いています。
彼の人生において何回、高速道路を走ったでしょう。首都高にも沢山の思い出があるようです。
「次は国産のコンパクトな車に乗るか」
「それで、高速を走るんだ!!」
散々、外車を乗り回した父は、今、国産車に興味があるようです・・・
首都高ホリデー宍戸錠のリレーブログ http://shutoholi.exblog.jp/
7/15(金)1.首都高で拳銃をぶっ放した男?
7/29(金)2.東京の出発点
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