第44回 コンビ二のドアを開け、荒野に向って走るジョー
かつて実家の周辺は畑でした。
その畑の地主が同じ(親戚ではないが)名字で縁を感じ、その畑の一角に父は家を建てたのです。
その周辺は地主の畑だけでなく、当時は東京教育大学農学部の敷地もあり、牛や豚や鶏、そして沢山の野菜があり、川が流れ、それはそれは都会のオアシスのような所でした。
私の通っていた学校は課外授業で農業をやり、その授業の一環の芋ほりでこの農場に行くことがありました。そんな時は私は家の前なので、直接、農場へ行ったものでした。
そんな所でしたので、スーパーに行くこともなく、この農場で食材は揃えることが出来たのです。
第43回 お誕生日
私ごとですが、昨日、8月21日は、私の誕生日でした。
幼い頃のバースデー・パーティーの記憶はあまりありません。何故なら入退院を繰り返していたからです。
しかし、中学、高校と、忙しい父が何故か私の誕生日には現れたのです。母は一人旅をしたりと、その頃はあまり一緒にお祝いをしませんでした。
第42回 映画語
映画の世界というのは独特だと思います。
私は生まれた時から映画スターの娘で、我が家には、映画スター、監督、スタッフの方々が集まっていました。
母に撮影所に連れて行ってもらった時のことです。
現場で、監督、照明部、録音部、制作部、その他のスタッフの方々の怒鳴り合う声・・・
そう。それは、我が家でもそうでした。映画の役柄のまま、たまに家に現れる父。その悪役の父は、いつも大きな声で怒鳴っていました。
私はその怒鳴っている声、音が怖くて、トラウマになりました。
しかし、後に、その怒鳴り声は“映画語”という言葉だと勝手に決め、理解しようと努力しましたが・・・
第41回 お盆
お盆休みになります。
お盆休みというのを父も私も経験したことがありません。
何故なら、芸能界はお休みが変動しているからです。
それに、私にとっていわゆる故郷というものも、家から5分、10分のところですし、里帰りは週に何回もしています。
第40回 次は国産車?!
小学生、中学生の頃、父の車が学校に横着けになると、私はお腹が急に痛くなって学校を早退しました。
車好きの父は、今まで何台の車に乗ったことでしょう・・・
そう、盛んな時期は3ヶ月に一回は、新しい車で学校に現れました。
父が幼い頃、日本が戦争でアメリカに負けてから、アメリカへの憧れを強く抱いた父は、ずっとアメ車に乗ってきました。
そして、朝からステーキ(いわゆるモーニングステーキ)を食べ、ビールを飲み、ジーンズを穿き、ハーシー・チョコレートは、いつも冷蔵庫の中に入っていました。
まさにアメリカン・ドリーム。
日活でスターの仲間入りをした父は、次々に車を乗り換えていきました。
そして、車を換える度に、家族を乗せて第三京浜を飛ばし、横浜の中華街へ行くのが定番でした。
時にはオープンカーやジープで高速を走りました。が、しかし、私はしっかりとドアのバーを握り、吹き飛ばされないよう、目にゴミが入らないよう、必死の思いで父のドライブに付きあった記憶もあります。
父は殆どアメ車しか乗りませんでした。なかでも、キャデラックがお気に入りで何台も同じ車を乗っていました。
そして、母も免許を取り、ヨーロッパの車も我が家にやってきましたが・・・
つまり、殆ど外車ばかり乗ってきた訳です。
ですから、私も左ハンドルの車に慣れているので、右ハンドルは怖くて運転出来ないようになってしまいました。