第37回 スティック・ジージー
「こっち来い!!」
落ち着きのない私の子供たち・・・
「お座り!!」
ジージーに飛びついて、離れない孫たち・・・
幼い頃から、宍戸家の犬たちは家族の一員です。
『拳銃は俺のパスポート』(’67年)や、『殺しの烙印』(同)の映画を演っていた頃、ダックスフンドのヘブライ君、ブラニアンくん、カサノバ君が我が家にいました。彼等は、私が生まれる前、そして、3歳まで過ごした目黒の家、それから、世田谷の今の実家に越してと、移動の多い時期にいた家族の一員です。
そして、間もなく、『青春喜劇ハレンチ学園』(’70年)、『おくさまは18歳・新婚教室』(’71年)等、コミカルな物にも挑戦しだした頃、ボクサーのアルキメデス君がやって来ました。
家も建て、子供たちも日に日に成長する中、父は必死に家族のために働きました。
ですから、テレビのバラエティー番組にも挑戦し、ほとんど家には帰って来ませんでした。そんな環境になったから、大型犬を家族の一員に迎え入れたのだと思います。
大型犬のボクサーは警察訓練学校にも入れ、大変、優秀な犬でした。そのせいか、その後も、アルキメデス2世、3世、4世・・・と、ボクサーたちが、私たちを守ってくれました。
私たちも成長し、みんなの時間帯がバラバラになってきた頃、初めての日本犬がやってきました。しかし、父は例によってアルキメデスと名付けました。
「女の子なのに」と、母。
「じゃー、アルキメデス子、略してアル子でいい」と、父。
白い大きな秋田犬はアル子ちゃんと呼ばれるようになりました。
私は留学先のベルギーからヨークシャテリアのメルロード君を連れて帰ってきたり、ハワイ留学からマルチーズのプリンス君を連れて帰ったりしましたが、すぐに、宍戸家の一員となり、大きなアル子ちゃんと仲良しになりました。
母が亡くなる前の年まで長生きしたパグのムサシマルコちゃん。彼女は、いつも母と一緒でした。父が出演したバラエティー番組で、元・武蔵丸関とご一緒した際、一緒に写真を撮って頂き、母の宍戸家の家族、ムサシマルコちゃんの説明に、元・武蔵丸関はキョトンされていらっしゃいましたが・・・(笑)
そして、もっとも凶暴な犬、シェパードが我が家にやってきたときは、皆、怖がり、警戒し、なかなか打ち解けなかったサダムフセインコちゃん。
いつも、ビッグな名前を付ける父です。
私は今から十年ぐらいまえに、自身の病により子供を失いました。そして、チワワのケニー君とクール君が私の息子となりました。
母と息子たちと、いつも近所の公園にお散歩に行っていました。息子たちはおばあちゃま(私の母)のことを『スティック・バーバー』と呼びました。公園に近づき、母を発見し、私が「あ!! スティック・バーバーだ!」と言うと、急いで橋を渡って、母の待っているベンチに走り出します。そして、必ずスティック(犬のおやつ)を母から貰うのです。
そんな母が、去年、他界してからもお散歩に行く度に、母と待ち合わせた場所が近づくと興奮する息子たち。
「スティック・バーバーはお空に行っちゃったんだよ」
仕方なく、息子たちは橋を渡らず帰ります。
先日、仕事の書類を持って、父の所に息子たちを連れて行きました。父の所には大型犬用の大きなスティックしかありません。
「お座り!!」と、父。
大きなスティックを一生懸命食べる二匹。
「これも持っていけ!」と、おみやげまでくれました。
やっぱり孫には弱いおじいちゃまです。
最近、公園の帰りにまっすぐ帰ろうとすると息子たちは実家に寄ろうと、必死に抵抗します。
「スティック・ジージーのとこ行きたいの?」
はしゃぐ息子たち。
スティック・ジージーは、今日も大きいスティックを息子たちにくれました。
「オスワリ!!」
「ヨーシ、ヨーシ(^・^)」
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