第32回 やはり雨でした・・・長門裕之さんご冥福をお祈り申し上げます。
かなり疲れていました。
私は海が見たくなり、湘南方面へ出かけました。
午後の海辺を歩きます。まだ、ちょっと早すぎたようです。薄着で来てしまったので、潮風が体を突き刺します。
しらすを食べようと、お魚屋さんに入りました。生しらすの軍艦巻きが何故か食べたくなって・・・
週末なので、お店は賑わっています。
「品切れです」
しらすにあり付けなかった私は、今度、来た時にしようと、海辺をドライブしながら帰路に向います。
車窓を開けると、潮風ではなく、雨風の香がしました。
私は車窓を閉め、しばらくボーっと海を眺めていると、携帯の音が車内に響きました。
「あー、週末ぐらい仕事したくない!!」と、思ったのですが、マネージャー本能が、携帯を手に取ります。
受話器の遠くの方から、「長門裕之さんがお亡くなりになり、急遽、錠さんに・・・」
「―――――――」
私は言葉を失いました。
「もしもし、もしもし、―――」と、テレビ局の方、
暫くして、「はい」と、私。
翌日、雨の中、テレビ局に向う車中、タイムスリップしている父。
長門裕之さんは、父と同じ77歳、昭和9年生まれ。(父は昭和8年ですが)
父は「アキオちゃん」と、本名で長門さんのことを呼んでいました。
長門さんは、芸能一家にお生まれになり、沢山の作品に出演されました。父とは、『危いことなら銭になる』(1962年、中平康監督、宍戸錠主演)で、共演しています。
テレビ局に着き、生放送の本番が始まり、日活風の口調で語る父。
しかし、ふと、重なったのでしょう・・・
「ユウコ(母のペンネーム)って、何かと呼んじゃうんだよ・・・振り返るといないんだよ・・・」
長門さんも、同じであったでしょう。
さすがの私もうつ状態になっている気がします・・・
次の日も一睡もせず、テレビ局の生放送。そして、父と二人、長門さんとのお別れをしに、お通夜へ。
タクシーに乗ればいいのに、坂の多い、麻布あたりを無言で斎場へ向い、歩く父。後遺症でダメになった足を引きずりながら、父の後ろを歩く私。
本当に、父と同年代の方の悲しい知らせばかりです。
死について考えてしまいます。
長門裕之さんは、天国に逝かれ、南田洋子さんと、今度は穏やかに永遠に暮らされることでしょう。
今日も、やはり、雨でした・・・
俳優・長門裕之さんの通夜に参列した宍戸錠 (C)ORICON DD inc.
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