第32回 やはり雨でした・・・長門裕之さんご冥福をお祈り申し上げます。
かなり疲れていました。
私は海が見たくなり、湘南方面へ出かけました。
午後の海辺を歩きます。まだ、ちょっと早すぎたようです。薄着で来てしまったので、潮風が体を突き刺します。
しらすを食べようと、お魚屋さんに入りました。生しらすの軍艦巻きが何故か食べたくなって・・・
週末なので、お店は賑わっています。
「品切れです」
しらすにあり付けなかった私は、今度、来た時にしようと、海辺をドライブしながら帰路に向います。
車窓を開けると、潮風ではなく、雨風の香がしました。
私は車窓を閉め、しばらくボーっと海を眺めていると、携帯の音が車内に響きました。
「あー、週末ぐらい仕事したくない!!」と、思ったのですが、マネージャー本能が、携帯を手に取ります。
受話器の遠くの方から、「長門裕之さんがお亡くなりになり、急遽、錠さんに・・・」
「―――――――」
私は言葉を失いました。
「もしもし、もしもし、―――」と、テレビ局の方、
暫くして、「はい」と、私。
第31回 宮城県の仲間達
宮城県の復興は、まだまだ時間がかかります。
父は宮城県に疎開していました。
小学校、中学校、高校と白石という町で過ごしました。
現在、父は77歳。喜寿ですが、去年まで宮城県の仲間たちとの同窓会は続いていました。
その同窓会は毎年、いろいろな場所で集まり、後半は、海外にも旅行に行ったりしていました。オーストラリア、マレーシア、上海と・・・
宮城県の仲間達からは、「ジョッチャン」と、少し訛った音で呼ばれる父。そこにはエースのジョーの姿はありません。
小さい時から、ガキ大将で、リーダー的存在だった父は、今でも皆のリーダーです。そして、そのリーダーは一人、高校を出て、上京しました。
上京した父は、大学に通いながら下宿先で、マージャンをしながら、新しい仲間達と夢を語り合ったそうです。
「演劇、映画を志した当時の若者達が、自然に仲間意識を持って、集合したのは、WHAT? WHY? 何故かそういう運命的な出逢いを持っていたのは、誰かが? そうしたのか? オレには判らない」と、父は言います。
その青年達は、菅原文太さん、浅利慶太さん、金森馨さん等、今、考えれば、そうそうたるメンバー。
その中で父は日活俳優に。菅原文太さんは劇団四季に入団。その後、新東宝へ。
宮城県から上京してきた青年達の夢は叶いました。
それから20年の歳月を経て、菅原文太さんと宍戸錠は深作欣二監督作品「仁義なき戦い」で、共演することになりました。
第30回 映画、テレビ、3D・・・
俳優という特殊な職業の父を持つ私は、私が生まれる前の父の青年時代の父に映像の中で会うことが出来ます。
過去を振り返り、現実を生き、いくつになっても未来を考える。
映画という媒体を通して、父達、俳優は常に、現在、過去、未来と共存しているのです。
第29回 ハードボイルドからソフトボイルドへ
「この辺はじゃんじゃん横チョがあったとこなんだよな。知ってるか?」と、父。
「知らない」と、私。
ユーロスペースという、渋谷の文化村近くの円山町の映画館の前の居酒屋に、少し時間があるので、私たちは入りました。
「本当はこれから貸切だけど、まだ、ボチボチしか来てないから特別にいいよ。食べてって」と、居酒屋のオヤジさん。
映画のポスターが壁中に貼ってあり、どうやら、映画好きの人達が集まる場所のようです。