第27回 LA VIE EN ROSE
エディット・ピアフの歌が流れます。
母のレリーフから始まり、父と母の結婚式の写真。ショート・フィルムならぬ、母の思い出のDVDアルバムを私は作りました。
「うなぎは精がつく」と、父。
母の一周忌。テーブルを囲み、お食事を頂きます。
「早いな、一年って」と、父。
父と母は、長い長い道のりを二人で歩んできました。
「私が出会った頃は、まだ、売れない俳優で、どちらかといえば文学青年だったのよ」と、母がよく言っていました。それから、石原裕次郎さんが骨折し、赤木圭一郎さんがゴーカートでお亡くなりになり、父はニューダイヤモンドラインの一員となりました。つまり、スターになり、虚像の中で生きていくようになっていったのです。
私の記憶では、父と母の意見が一致したことはありませんでした。まったく、正反対の意見を言い合う二人。私は、その間に挟まれて、何で二人は一緒にいるのだろうと・・・
いつも、不安でした。
いつ、別れるか・・・
どちらかについて行かなくてはならない状態になったらどうしよう。
生意気な私は、小学生の時、父と別れようと思うという母に、「パパとママは大好きで結婚して、私がいるんでしょう」
「ママはパパが大好きだから私を産むことを決めたんでしょう」
「だったら、最後まで責任をとって!!」
「嫌いになるなら何故、産んだの? ママがパパを選んだんだから。私が選んだんじゃないんだから。別れたら絶対に許さないから!!」不安で不安でたまらない私は、母を責めました。それからも、幾度となくビクビクしてきました。
悪役として生きてきた父は、撮影所でも、家でも悪役のままでした。本当に母は耐え抜いたと思います。
まさに、バラのように棘だらけの父との人生だったと・・・
母は私を連れて、毎年、河津のバガテル公園にバラを見に行きました。母はバラが好きでした。バラには沢山の棘があります。でも、とても美しい花です。私も今ではバラの香が大好きです。
最後まで父と一緒に居てくれたことに感謝。
子供の頃、何時、二人は別れるか不安でしたが、母の写真が、今、父のお財布の中に入っています。今でも二人は一緒にいます。
結婚をした私は相反する二人の夫婦が理解できるようになりました。父と母のように、別れることなく、生きていこうと思います。
私は知っています。母の人生はばら色の人生だったと。
LA VIE EN ROSE
宍戸錠が描いた母と私
タイトル:哺乳瓶 3歳まで過ごした目黒の自宅の庭
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