第28回 マイトガイ・アキラ VS エースのジョー
先日、食事会後、「ちょっと買い物に行こう」と、父が言いました。
私も夫もお酒を飲んでしまっていたし、ほかに知人もいたので、「タクシーで行きましょう」と私。
「いや、歩いていく」と、父。
かなりお酒も飲んでいたので、心配だったのですが、父はテクテクと歩き始めました。少し前は、お酒を飲むと足取りがちょっと・・・という感じでしたが、私達が付いて行けないほどのスピードで、テクテク歩いて行きます。かなりの距離をテンポを変えずにテクテク。ショッピング・モールについたときは、私はもう、「はあ~、はあ~」と、息が切れていましたが、父はモールの中もテクテクと歩きまわります。
「最近、飲みに行くとき、タクシーに乗らず歩くんだよ」と、父。
行きつけのお店の方も「タクシーを拾わなくて大丈夫ですか?」と、心配して、私の所に連絡を頂くことも。でも、父はテクテクと歩き続けるのです。
第27回 LA VIE EN ROSE
エディット・ピアフの歌が流れます。
母のレリーフから始まり、父と母の結婚式の写真。ショート・フィルムならぬ、母の思い出のDVDアルバムを私は作りました。
「うなぎは精がつく」と、父。
母の一周忌。テーブルを囲み、お食事を頂きます。
「早いな、一年って」と、父。
父と母は、長い長い道のりを二人で歩んできました。
「私が出会った頃は、まだ、売れない俳優で、どちらかといえば文学青年だったのよ」と、母がよく言っていました。それから、石原裕次郎さんが骨折し、赤木圭一郎さんがゴーカートでお亡くなりになり、父はニューダイヤモンドラインの一員となりました。つまり、スターになり、虚像の中で生きていくようになっていったのです。
私の記憶では、父と母の意見が一致したことはありませんでした。まったく、正反対の意見を言い合う二人。私は、その間に挟まれて、何で二人は一緒にいるのだろうと・・・
いつも、不安でした。
いつ、別れるか・・・
どちらかについて行かなくてはならない状態になったらどうしよう。
第26回 愛に・・・喝采
仕事の資料をチェックするため、昔の映画アルバムを開きました。その中に、父の弟、郷鍈治さんのインタビュー記事を見つけました。
父と鍈治叔父様は、同じ悪役でも、相反するキャラクターです。1960年に日活映画『狂熱の季節』でデビューし、『早射ち野郎』(1961年)他、数多くの作品で父と共演しています。
錠と鍈治のアクションシーン(『早射ち野郎』) 映画アルバムより
第25回 『ろくでなし稼業』、初主演
「ジョーさん、今日は機嫌がいいね」
私の隣にお座りになっている知的なヒッチコックのような老人。
1959年、『ギターを持った渡り鳥』から、渡り鳥シリーズをお撮りになった斉藤武市監督です。そして、そのシリーズになくてはならない、主演の小林旭さん。彼の敵役として、宍戸錠はたちまち、人気者になりました。そして、日活社員3000人の声でダイヤモンドライン、石原裕次郎さん、小林旭さん、赤木圭一郎さん、和田浩治さんに、一人の男が加わりました。宍戸錠はニューダイヤモンドラインの一員となったのです。
そう、宍戸錠にチャンスが訪れました。