富士山と山歩き(2)~私の富士山考
■富士山の名前のいわれと日本人
さて、富士山という山の名前のいわれですが、古い文献には「不二山」とか、「不尽山」とあります。富士山は、日本、いや、世界のどこにもない唯一無二のコニーデ型の単独峰、また、言葉に言い尽くせないほど美しく、霊験あらたかな霊峰というわけでしょう。
しかし、武士の世の中になった鎌倉時代、「武士が富む」という意味を込め、現在の富士山となったようです。
この富士山が、それまで修験者にとって霊場だったものが、広く一般大衆にとっても信仰の対象として崇められるようになったのは江戸時代です。現に、多くの人々が静岡、山梨両県のふもとの宿坊に泊まりながら登拝し、極楽浄土を願ったものでした。
もっとも、江戸時代の宝永年間(1704~1711年)、静岡県側の山腹の一部が爆発し、ぽっかりと穴が開いたため、形が少し崩れることになりました。その名残は今もとどめ、その周辺を宝永火山と呼んでいます。
しかし、静岡、山梨両県のいずれから仰ぎ見ても、その秀麗さは「世界広し」といえども富士山をしのぐ山はありません。
やがて、明治維新を迎え、尋常高等小学校などが整備され、さらに義務教育の小・中学校へと変遷するなか、静岡、山梨両県の学校の校歌に富士山を歌い上げ、いつしか信仰心があるとないとにかかわらず、富士山は日本人の“心の山”となり、今日に至っているのです。そればかりか、その名は世界に知られており、日本に駐在する外国人は「その記念に」と“マウントフジ”に登る傾向がみられます。
なるほど、富士山に登っていると外国人をよく見かけます。そこで、富士山は「世界遺産」への登録をめざすまでになりました。
■ふるさとの富士
ところで、交通機関のない江戸時代、遠方の庶民はそれもままなりませんでした。
そこで、地元のふるさとのコニーデ型の山を富士山に見立て、その山に登れば“本家本元”の富士山に登拝したものとして信仰心を強めました。それが、ふるさとの富士です。
ご参考まで、筆者が長年にわたって調べたところ、北は北海道の利尻富士(利尻山:標高1252メートル)から南は沖縄の本部富士(目良(みらむい)山:標高250メートル)、および塩屋富士(標高317メートル)まで全国に350座あります。
このうち、代表的な130座に登り、山岳紀行として上梓したのが『ふるさと富士百名山』(山と渓谷社)ですが、おかげで各地の多くの人たちと出会い、地元の富士に対する思いを実感させられました。
なお、江戸市中や郊外の武蔵野台地に人口の富士山を造成し、この塚に登って遥か彼方の富士山を見やり、富士山登拝に見立てたものもあります。これは富士塚といわれる人口のミニミニ富士山です。
利尻富士の利尻山(利尻島にて)
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