高齢者福祉を考える(2)~何とかならないのか、定(停?)年制
■1日でもいいから親孝行を?
「100年に1度の経済危機」(?)といわれている折、9月の“シルバーウィーク”ならぬ“第2のゴールデンウィーク”に国内、あるいは海外旅行に出かけた方も多いかと思います。
「日ごろ、緊張した心身をリフレッシュさせたい」、「たまには家族で遠出も」などと、いろいろな計画を立てていることと思います。それはまた、国内経済の景気回復や地域活性化、あるいは海外での見聞や友好親善に努めることも結構です。
しかし、せめてそのうちの1日でもいいですから、「敬老の日」、あるいは「老人の日」の意味も考え、同居、別居を問わず、老親を敬うようなことがあってもいいのではないでしょうか。
もちろん、好きなところへ一緒に旅行に出かけるとか、何かプレゼントの品を渡すとか、外食に誘うなどといったことができれば満点です。それが無理でも電話を1本かけ、日ごろのご無沙汰を詫び、元気な様子をうかがうことだけでも、親というものは喜ぶものです。
とりわけ、8月の旧のお盆休みに帰郷できなかった向きには、そんな提案をせざるを得ない気持ちになります。
私事で恐縮ですが、筆者は十数年前、実父と義父を亡くしていますが、生前、軽井沢の山荘に招いたり、槍・穂高連峰の登山に誘ったりして、それなりの親孝行をしたつもりです。また、同居している義母には日ごろより外食に誘うなど、恩義を忘れてはいないつもりです。
ただ、別居している実母には、たまに会っても何かのついでということが多く、もう十年以上もこれといった孝行はしていない、いえ、仕事が忙しいと言い訳めいてできていません。このため、今年は久しぶりに軽井沢や草津の温泉に招待できればと思っています。
■何とかならないのか、定(停?)年制
ご存知のように、わが国は高齢化がますます進んでおり、現在、国民の5人に1人は高齢者です。また、将来は2.5人に1人が高齢者という超高齢社会になるといわれています。
ただし、私見では高齢者を65歳以上としている指標自体、世界最長寿国のわが国の実態には合わないため、20年前に上梓した『現代老人福祉論』(ミネルヴァ書房)などのなかで「わが国の実情を考えれば70歳以上にすべきだ」と述べました。このような考えは、今では寝たきりや認知症の発現率が二桁台になる「80歳以上」、いや、年齢による差別的な区分そのものが適切でないと考えています。
現に、「低福祉・低負担」のあのアメリカでさえ、1967年、「年齢による差別禁止法」を制定し、年齢を理由によるいかなる差別も禁止されています。このため、わが国のような定(停?)年制がないため、労働の能力と意思があれば何歳でも就業できることになっています。
その点、わが国の定(停?)年制は、年金が満額になるのは65歳であるにもかかわらず、多くの企業は定(停?)年制そのものを撤廃しないどころか、65歳まで延長せず、60歳前半までの雇用継続という形で、お茶に濁しているのが実態です。
これでは、「この法律は、老人の福祉に関する原理を明らかにするとともに、老人に対し、その心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な措置を講じ、もつて老人の福祉を図ることを目的とする」、また、「老人は、多年にわたり社会の進展に寄与してきた者として、かつ、豊富な知識と経験を有する者として敬愛されるとともに、生きがいを持てる健全で安らかな生活を保障されるものとする」と定める老人福祉法第1条、および第2条の基本的理念に反するのではないでしょうか。
さらに、その第3条で「老人は、老齢に伴って生ずる心身の変化を自覚して、常に心身の健康を保持し、又は、その知識と経験を活用して、社会的活動に参加するように努めるものとする。2 老人は、その希望と能力とに応じ、適当な仕事に従事する機会その他社会的活動に参加する機会を与えられるものとする」と定めていますが、絵空事のように思われてなりません。
心身の健康と社会参加で安心な老後(群馬県片品村社協の福祉大会にて)
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