父の命日
「介護を卒業した」という言い方がある。お目出度い「卒業」ではない。要介護者であった身内が亡くなったという事だ。現在、「荒川区男性介護者の会」の会員は半数以上がこの卒業者である。とは言っても会長である荒川氏のように一度奥様の介護を卒業した後にお子さんの脳疾患により再び現役に戻る方もいる。私のように父の介護を卒業しても母(要介護3)や弟(愛の手帳3度)がいる場合もある。故尾崎豊の「卒業」の歌詞ではないが「あと何度自分自身 卒業すれば 本当の自分に たどりつけるのだろう?」なんて気にもなってしまう。
8年前の3月14日、介護保険の要介護5であった父が未明に息をひきとった。
当時自宅3階で就寝していた私の部屋の電話が鳴り1階で父の横に寝ていた母から「お父さん死んだみたい」との連絡が入った。あわてて1階まで降りて確認すると既に父の心音は無く呼吸も停止していた。すぐに馬乗りになって心臓マッサージを試みた。小さく痩せこけた身体の肋骨が折れる程押し続けた。どれくらいの時間続けていたのかわからないが、未だ薄ら寒い時期の未明であるにもかかわらず額に汗をかき、そのしずくが自分の手の甲に落ちるのを見て我に返った。万一蘇生したところでずっと死にたがっていた父に恨まれるだけであったろう。
まだ大抵の方は起床前の朝5時頃、主治医宅に連絡したところご本人は無理であったものの知り合いの先生を手配してくれて30分くらいで遺体の診断に駆けつけてくれた。「何かあったら24時間いつでも連絡下さい」と言ってくれていた訪問看護ステーションの看護師さんも検死に駆けつけてくれた先生とそう変わらない時間で到着し、遺体の体内に残った排泄物をかき出すなど父の身体をきれいにしてくれた。この時の看護師さんには本当に長い間大変お世話になったものだ。
その後葬儀社に連絡。今思えばあの時来たのが今話題の「送り人」であったのか。死装束などを整え遺体への儀礼的なものを指導・解説してくれた。斎場(火葬場)が混んでいた為荼毘に付したのは亡くなってから4日後。異常にめまぐるしい数日間であったが父や私が日頃どれだけの方々のお世話になっていたか、思い知らされる日々であった。
知的障害がある弟は今でもほとんど毎日朝夕に仏壇を拝み線香をあげていて、時折「お父さん早く生き返って下さい」などと呟いている。生き返れば元の元気な父に戻っていると信じて疑わないようだ。障害がある分兄弟の誰より父への思い入れは深かったのだと思う。
そしてちょうどこの時期母には小学校時代の同級生からクラス会の案内が来る。毎年4月上旬に開催される為その年も命日の数日前に案内が届いていた。亭主の介護中という事もあって欠席で返事を出していたが、姉と私で説得し急遽出席させた。以降一昨年までは車椅子に乗った母を私と姉で送迎し参加させていたのだが、昨年からは失禁の回数が増えていることもありどうしても本人が行きたがらない。学校卒業後約60年続けているというクラス会も年々人数が減っており今では10人以下だという。当然既にご主人に先立たれている人もいれば一人暮らしになっている人もいるし、介護中の方もいる。苦楽を共にしてきた友人と久闊を叙するのは日頃のストレス解消にもってこいだと思うのだが。
いつの日か母の介護も卒業する日がやってくる。その時は父の時のように多くの後悔を残さないようにしておきたい。
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