母の稽古ごと
“稽古”を国語事典でみると、「稽」は考える、「古」は、いにしえとあり、「理想的な形に近づく修練」とある。
明治生まれの母にとっては、和裁・洋裁の稽古は、まさに国語事典にあるとおりと、納得できる。
当時和裁は、一般的に誰でも“たしなみ”の一つとして身につける習慣があった。一方、洋裁は、やりたくても稽古の場がなかなかなくて不可能に近かったとのこと。
それでも母はあきらめず、結婚してからやっと見つけたのは、織り物の町として有名な結城であった。
先生は教会の宣教師の奥様。
当時の田舎では、女学生のセーラー服姿以外で洋装の人は日常なかなか見られなかった。
当然のことながら、洋裁を学ぶとか、教える場など論外。初めて見る外国のファッション誌を見回しながら、「大変だったけど夢のようなぜいたくな稽古」と、母は口ぐせのように言った。
不思議なことに、母は94歳で他界するまで、冬も夏も和服で、洋服は外国旅行の時だけであったが、よく似合っていた。
私と弟は、人より早く、母の手製の洋服姿でご機嫌だった。
ハンカチから下着まで、何もかも母の手製で、しかもシンガーミシン仕立てということは、今考えれば何もない時代だけに、そうせざるを得なかったのかもしれない。
そういう時代になることを、母は予感し、当時では珍しい洋裁の稽古に、ことのほか励んだのではないかと思う。
戦後、いろいろなミシンが開発され、便利に使えるようになっても、母は買い替えようとせず、古い足ぶみのシンガーミシン以外使わなかった。ミシンが使えなくなったら、編物に切りかえ、独学で手編みに徹した。
おかげで、母の手製の作品は、和服、洋服、セーター、カーディガンなど多く、今も愛用している。
日常身につけるものは、ほとんど母の手製といってもよい。
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