子どもの子どもになりたくない
老いて後、子どもに世話されることは人間としての尊厳を放棄するかのような記事に注目したことがある。それはスウェーデンを取材し、そこには一老人の言葉が引用されていた。極めて短い。
「私は、子どもの子どもにはなりたくない」
ステレオタイプの日本人がこれを読めば、
「子どもに世話はかけたくないからなあ!」
と納得するのだろうが、かなり意味合いは違うらしい。文字どおりの意味であるようなことを取材の解説にはあった。いつ、なんという雑誌に記してあったかは失念してしまったけれど、この取材内容だけは強くオレの記憶に突き刺さっている。
母はどうだろう? オレは、母が授けてくれた恩は繰り返し繰り返し蘇ってはくるけれど、それは凜としていた頃の母。今の母は、オレの子どものようであることは間違いないと思う。子どもではない。それはあり得ない。子どもの様、なのだ。
全てがオレに仕切られていることは当然なのだが、オレの心の有り様に驚くことがときどきある。
例えば、オレがガキの頃、母はこんな言葉をオレに向けた。学生服のボタンをちゃんと上まで填めていなければ、
「あんた(オレ)はそれでいいかもしれんけど、親の私が風が悪い(みっともない)んじゃ。ちゃんと填めなさい」
今、オレがときどき同様な気持ちになることがある。
母の目ヤニの湧き出方はスゴイ。朝、目ヤニで上瞼と下瞼が貼り付いて目が開かない状態になっていることも。こんなとき、目薬を2滴づつ落としてから目ヤニを拭き取ってやる。オレは母に語りかけながら。
「なあ和ちゃん。こんな目でデイサービスへ出陣したら、ワシが笑われるからのお! ちょっと辛抱するんで」
母は顔をゆがめて嫌々をしている。それも可愛く見えるから、母はオレの子どもの様であるのだ。
冒頭の、子どもの子どもになりたくない。でも、そんなに悪いことでもないような気がしてならない。
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