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野田明宏の「俺流オトコの介護」

ボケという言葉を考えた

 親しくさせてもらっているGH(グループホーム)へ写真撮影に出向く途中のこと。
 岡山駅構内にあるレストランへランチを食べに入った。生まれて一度も煙草を吸ったことのないオレは、もちろん禁煙席へ。
 最近、どういうわけか? 以前はあまり気にならなかった煙が不愉快で仕方ない。ひつこいのだが、オレは煙草を吸ったことはない。口の中で転がしたことさえないのだ。中学・高校時代には、友人から誘われてもキッチリと断った。そんなとき、
 「チェッ! 野田は付き合いが悪いのお」
 集団で、隠れて吸っているものだから、アチコチからオレを嫌悪する声が飛んできた。しかし、嫌なモノは嫌なのだ。その嫌なことを押しつけられてまで仲間でいようとは全く思わなかった。友人達も、不快な表情はその瞬時だけ。嫌なことを押しつける者はいなかった。そういう仲間と青春を過ごせたことは、今、やはり心の肥やしになっている。
 話が冒頭から逸脱したついでに触れておきたいことが一つ。
 オレが高校球児であった頃、オレの周囲の中・高校生は隠れて煙草を吸っていた。大人に見つかることはアウトだった。これ、見方を変えれば、大人に対しての礼儀・敬意であったように思う。
 想像して欲しい。当たり前にように、中・高校生に堂々とオレ等大人の目前で煙草を吹かされては、大人の面子まるつぶれである。注意もしない。できない。今、煙草以外でも、こんな事象が公然と日本中で闊歩していること甚だしい。
 で、オレが着席した隣には二人のご婦人。お二人ともに70歳オーバー80歳アンダーというところか? ご婦人たちは揃ってジョギングシューズを履いている。聞き耳を立てるまでもなく、声がデカイので二人の会話が勝手に耳に飛び込んでくる。元気なのだ。
 二人の会話。岡山弁を言語変換して綴る。
 「ボケちゃダメよねえ! ボケは本当に恐い」
 「そうそう。本当にそうよ。子供たちにも迷惑かけるし。それより、ボケた本人が一番困るからねえ」
 「笑うといいそうよ。『ワッハッハッハー』。可笑しくなくても、この『ワッハッハッハー』だけでも効果があるんだって』
 「アゴの骨が外れそうね?」
 「そうなのよ。外れるくらいまで笑わないとボケ予防にならないのよ。カクッて、アゴの骨なんて直ぐにくっつくって」
 「私ね、デイサービスで自転車漕いでるんだけど、負荷は掛けないのよ。自然でいいの。無理は禁物」
 「私もなるべく歩くように心掛けているんだけど、ボケ予防になってるのかねえ? ボケは嫌だ」
 まあ、こんな感じの会話を耳にしながらランチしていたわけだけど、オレがここでフォーカスしている語彙は“ボケ”だ。次から次へとボケという単語が連発される。オレからすれば、品の良いご婦人二人から。
 でだ。このボケという語彙。本当に認知症の人をバカにした言葉なのだろうか? オレは以前から不可解だった。オレの認知する限り、ボケはお年寄りの間で市民権を得ている。認知症と声にするお年寄りは希だ。
 オレ自身はといえば、意識して認知症という言葉を声で発し、文字化して使用しているけれど、ボケという言葉に抵抗はない。ボケという言葉を発するお年寄りと会話するときは、オレもボケという言葉で応答する。
 こういうことを、なんだか変ね? と意識している人は案外多い。認知症という言葉を使用しないと介護というフィールド内では良識のない人と見られるからだろう。
 ボケという言葉。もう一度、再考しても良いのでは? と強く思う。
 ボケと認知症。
 世間と、識者と呼ばれる方々の溝ではないか?
 オレは去年、“認知症の人と家族の会”から抜けた。
 オレの一方通行かもしれないのだが、仲間になれなかったから。
 認知症の家族を在宅であれ施設であれ、自らの手で介護する。
 ということと、
 認知症の家族がいても自らは手をださない。
 同じフィールドではないはずなのだけれど?
 
 ショートステイでの入浴への流れ 感謝!
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コメント


野田さま

私は、認知症の方がボケよりベターだと思います。
ただし、認知症も学術用語色。
もっと、ホンワカした言葉、親しめる言葉が見つかればと考える一人です。


投稿者: 熊夫 | 2011年03月30日 13:44

》認知症という言葉を使用しないと介護というフィールド内では良識のない人と見られる……

 良識のあるなしというより、「認知症」を病名とし、それが正式名称だということになっているから、ではありませんか? わたし自身は「認知症」というのはヘンな病名(認知障害という病態をさして認知症と呼ぶのはヘン)だと思いますが、正式に病名とされてしまったらしいので、病名を言うときに仕方なく使用しています。

 野田さんは「ボケ」という語に抵抗をお持ちでないということですが、わたしも大して抵抗はないです。しかし、使われ方によってはバカにされているような気がすることもあります。わたしの母はアルツハイマー型認知障害者ですが、「あなたのお母さんはボケ老人になってしまって……」みたいなことを言われると不快感があります。要は使う人の人格と使われ方にもよるのでしょう。

「認知症」の前には「痴呆症」と呼ばれていましたね。その呼び方は病状を非常に端的にあらわしているとは思います。わかりやすい。しかし、痴呆という言葉には、はっきりと侮蔑的な色があります。わたしとしては非常に不快です。わかりやすければいいというものではありません。
「ボケ」という言葉は、「痴呆」のなかの一部分を音読したものですから「痴呆」に通じるものはありますが、かろみがあるので、深刻な感じがなく、じっさい、深刻な認知障害以前の症状をさしていることも多いのではないかと思います。わたし自身、「最近、わたし、ちょっとボケてる」と人に言ったりします。でも、それは、認知障害をともなう病気になったかもしれない、ということとは全然ちがいますね。なので、「認知症」の代わりに「ボケ」をつかうことはできないでしょう。

》認知症の家族を在宅であれ施設であれ、自らの手で介護する。ということと、認知症の家族がいても自らは手をださない。同じフィールドではないはずなのだけれど?

 某教育評論家が若い母親たちを集めて育児講座を催したとき、講演の途中で、その教育評論家が自分自身の子は持っていない事実を述べたら、聴衆の何割かは明らかに白けた表情になったそうでした。
 その話の趣旨は、自分自身が子どもを産んだことも育てたこともないのに育児論を人に説いたりするのはおかしい、という論理は間違っている、というもので、わたしも、それは間違っているとは思うのです。ひとは体験のみから学ぶものではないし、自分の体験にこだわらない、ひとりよがりにならない客観性のほうがむしろ重要だから。
 でも、白けた表情をしてしまった母親たちの気持もわかるのです。わたしは三人の子どもを産みましたが、お産というのはあまりにも痛すぎた。個人差もあるが、あの気が遠くなるような痛みに耐えて、産んだら産んだで、そのあと延々とつづく睡眠不足と過労。育児ノイローゼになる人の気持もわかる。真夜中に発熱した子どもを抱きしめて、赤ん坊が鼻汁を詰まらせて苦しそうだったらみずからの唇で吸ってやったりもするような……そんなアレコレも含めて母親なんだ、それをしてみなければ母親の気持なんてわからないという思いも理解できる。
 たぶん、どっちも正しいのでしょう。要は、目的、めざすところ、なのでは。

 野田さんの率直な文章が好きで、よく拝読しています。それに、さすが、写真がすばらしいです。いつも感嘆してしまいます。


投稿者: サワ | 2011年03月31日 01:08

サワさま

母親の話し。共感しますが、そういう話を聞いた時に、私がいつも思い出すのは、がんにならなければ、医者はがんがわからないのか。がん患者の気持ちに寄り添えないのか、ということです。
私は、がんになったことのない医者でも、治療はできるし、気持ちを理解することもできると思います。
その意味で、たしかに子どもを産み育てたことがない人が教育論を語るのは、その経験がある人からしたらシラーっとしてしまうのもわからなくはないですが、その教育論まで否定するのはどうかと思ってしまいます(サワさんは否定していませんが)。
介護にしても、野田さんのブログに登場する若い介護士さんたちは、仕事以外で介護経験がある人ばかりではないと思いますが、みなステキな笑顔で心をこめて和ちゃんに接していますよね。その笑顔をみると、経験のある・なしが、そんなに重要なことなのか、と感じます。


投稿者: いい天気♪ | 2011年03月31日 09:23

熊夫さま

毎度です。
でも、初めて意見が割れたような記憶です。

サワさま

はじめまして。
長文、ありがとうございました。
で、改めて考えたのですが、
漫才では ボケ と つっこみ
という役割分担で笑わせてくれます。
このときのボケという言葉に違和感は感じないと思います。
ボケ。
そのTPOで使い分けが必要かもしれません。
でも、基本的には、本文で記したことに変更はありません。

これは、介護者の会などで乱れ飛んでいるフレーズですが、
「介護はやった者でしか分からない」
 皆、シッカリ頷きながらこの言葉に納得します。
 私も、もうじき母の介護が10年目になりますが、過去の経験値では対応できないことが今でもあります。
 となると、経験と実践、そして想像力。
 この想像力があれば、子育ての大変というところから介護の大変が想像力で推し量れるような気がします。
 ただ、私自身は未婚で子供もいませんから、育児論を公で語ることはしません。
 オレたちの育った頃は、こうだった。
 くらいの発言はしますけれど。
 もちろん、プライベートではガンガン言いまくってます。
 ちょっとトンチンカンな返信になりましたが、正直、上手く説明できないなあ! という私が存在している事実もお伝えしておきます。

いい天気♪さま

はじめまして。
コメントありがとうございます。
若い力ばかりではなく、中高年介護職等も素敵な笑顔が多いのですが、カメラを向けると遠慮されて、ときにはお叱りも頂戴したりして。
でも、おっしゃるとおり、和ちゃんの周囲は優しさ豊作で感謝ばかりです。
ありがとうございました。


投稿者: 野田明宏 | 2011年03月31日 13:10

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
野田明宏
(のだ あきひろ)
フリーライター。1956年生まれ。約50カ国をバックパックを背負って旅する。その後、グアテマラを中心に中央アメリカに約2年間滞在。内戦下のエルサルバドルでは、政府軍のパトロールにも同行取材等etc。2002年、母親の介護をきっかけに、老人介護を中心に執筆活動を開始。2010年現在、83歳になる母と二人暮らしで在宅介護を続ける。主な著書は『アルツハイマーの母をよろしく』『アルツハイマー在宅介護最前線』(以上、ミネルヴァ書房)など多数。『月刊ケアマネジメント』(環境新聞社)にて、「僕らはみんな生きている」連載中。
http://www.noda-akihiro.net/
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