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野田明宏の「俺流オトコの介護」 2011年03月

ボケという言葉を考えた

 親しくさせてもらっているGH(グループホーム)へ写真撮影に出向く途中のこと。
 岡山駅構内にあるレストランへランチを食べに入った。生まれて一度も煙草を吸ったことのないオレは、もちろん禁煙席へ。
 最近、どういうわけか? 以前はあまり気にならなかった煙が不愉快で仕方ない。ひつこいのだが、オレは煙草を吸ったことはない。口の中で転がしたことさえないのだ。中学・高校時代には、友人から誘われてもキッチリと断った。そんなとき、
 「チェッ! 野田は付き合いが悪いのお」
 集団で、隠れて吸っているものだから、アチコチからオレを嫌悪する声が飛んできた。しかし、嫌なモノは嫌なのだ。その嫌なことを押しつけられてまで仲間でいようとは全く思わなかった。友人達も、不快な表情はその瞬時だけ。嫌なことを押しつける者はいなかった。そういう仲間と青春を過ごせたことは、今、やはり心の肥やしになっている。
 話が冒頭から逸脱したついでに触れておきたいことが一つ。
 オレが高校球児であった頃、オレの周囲の中・高校生は隠れて煙草を吸っていた。大人に見つかることはアウトだった。これ、見方を変えれば、大人に対しての礼儀・敬意であったように思う。
 想像して欲しい。当たり前にように、中・高校生に堂々とオレ等大人の目前で煙草を吹かされては、大人の面子まるつぶれである。注意もしない。できない。今、煙草以外でも、こんな事象が公然と日本中で闊歩していること甚だしい。
 で、オレが着席した隣には二人のご婦人。お二人ともに70歳オーバー80歳アンダーというところか? ご婦人たちは揃ってジョギングシューズを履いている。聞き耳を立てるまでもなく、声がデカイので二人の会話が勝手に耳に飛び込んでくる。元気なのだ。
 二人の会話。岡山弁を言語変換して綴る。
 「ボケちゃダメよねえ! ボケは本当に恐い」
 「そうそう。本当にそうよ。子供たちにも迷惑かけるし。それより、ボケた本人が一番困るからねえ」
 「笑うといいそうよ。『ワッハッハッハー』。可笑しくなくても、この『ワッハッハッハー』だけでも効果があるんだって』
 「アゴの骨が外れそうね?」
 「そうなのよ。外れるくらいまで笑わないとボケ予防にならないのよ。カクッて、アゴの骨なんて直ぐにくっつくって」
 「私ね、デイサービスで自転車漕いでるんだけど、負荷は掛けないのよ。自然でいいの。無理は禁物」
 「私もなるべく歩くように心掛けているんだけど、ボケ予防になってるのかねえ? ボケは嫌だ」
 まあ、こんな感じの会話を耳にしながらランチしていたわけだけど、オレがここでフォーカスしている語彙は“ボケ”だ。次から次へとボケという単語が連発される。オレからすれば、品の良いご婦人二人から。
 でだ。このボケという語彙。本当に認知症の人をバカにした言葉なのだろうか? オレは以前から不可解だった。オレの認知する限り、ボケはお年寄りの間で市民権を得ている。認知症と声にするお年寄りは希だ。
 オレ自身はといえば、意識して認知症という言葉を声で発し、文字化して使用しているけれど、ボケという言葉に抵抗はない。ボケという言葉を発するお年寄りと会話するときは、オレもボケという言葉で応答する。
 こういうことを、なんだか変ね? と意識している人は案外多い。認知症という言葉を使用しないと介護というフィールド内では良識のない人と見られるからだろう。
 ボケという言葉。もう一度、再考しても良いのでは? と強く思う。
 ボケと認知症。
 世間と、識者と呼ばれる方々の溝ではないか?
 オレは去年、“認知症の人と家族の会”から抜けた。
 オレの一方通行かもしれないのだが、仲間になれなかったから。
 認知症の家族を在宅であれ施設であれ、自らの手で介護する。
 ということと、
 認知症の家族がいても自らは手をださない。
 同じフィールドではないはずなのだけれど?
 
 ショートステイでの入浴への流れ 感謝!
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雨降りの季節への対策

 今冬、岡山市でも-4度以下という朝もあり厳しい冷え込みが続いた。こんな朝、外に置いてある洗濯機は、洗濯機へ水を注入するホース内凍結で稼働しなかった。サッシの窓も凍結。開かない。開くもなにも、凍結した結露が氷柱状態で畳のそばに連なっているのだから開くわけがない。
 更には、乾燥した日が続き、寒さと乾燥のダブルとなればインフルエンザに注意。もちろん、母もオレも昨年に予防接種済みではあるけれど、警報発令。加湿器を室内で稼働させる等々、やるべきことをやった。
 とはいえ、天気の良い日が続き晴天日が多かったことは助かった。
 ところが、2月はじめ頃からポチポチと時々、弱雨が降り出した。ひつこいのだけれど、車椅子のスロープが気に掛かった。
 写真は、雨降り後数時間経過してデイサービス朝のお迎え後のスロープ。
 靴後。微粒より大きな砂石? かなり付着している。購入してあった箒をとりだしサッサッサッ。粉塵のようなモノまでは掃けない。靴後もシッカリ残存。雑巾でスロープを拭いて、その後は天日干し。

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 やれやれだ。
 これ、ザーーと、水道からホースで洗い流すのがベターかもしれない。考慮の余地はあるだろう。
 いつまでもバカバカしい
 そう想われている方々も多いだろうけれど、車椅子の前輪と後輪にも付着する。
 拭けばいいじゃないか?
 理屈ではそうなのだけれど、雑巾で拭けば、雑巾を洗い干すという作業もある。使い捨て雑巾なるモノはないのか?
 でだ。梅雨はまだ先だけれど、春になると菜種梅雨という雨降りの季節がある。このスロープを雨降りの下、どういう風に下り、お迎えの車に乗せるか?
 職員一人のお迎えを二人にしてもらうか? デイサービスから車で1分の距離だから無理ではないのだけれど…
 スロープなしで、車を直に横付け。厳しいなあ!?
 嗚呼! ドームがあると良いなあ!
 雨降りが多くなるこれから、大きな課題であります。
 



順番

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 時々寄らせてもらうGH(グループホーム)の一室。
 しかし部屋の主は、オレがこの写真を撮る10時間ほど前に亡くなられていた。
 この部屋で、GH職員等に見守られながら穏やかに逝かれたとのこと。
 ターミナルケア。家族が望めば病院への搬送はしない。看取りを怖がらない。看取る・看取らせていただくことまでをGHの役割と考えている。
 この日、以前からGHに寄らせてもらい写真撮影させてもらう予定ではあった。が、早朝、親しくしている職員さんから亡くなられたことを知らされた。そして、予定どおりに撮影してもらっても構いません、とのことでもあった。
 とはいえ、考えた。
 亡くなられた当日に寄らせてもらっても良いのか? 遠慮すべきが良識というものではないのか?
 かといって、この日を避けると新たな予定日は先の先となる。自らの良識という価値観を隅に追いやってオレは出向くことにした。
 「こんにちはー」
 玄関から入り、ユニットのドアを開ける。少し緊張するオレがいた。
 ところが、いつも同様の光景がそこには展開されていた。亡くなられたKさんの姿が見えないこと以外は。
 Kさんの部屋に向かう。手を合わせることはしなかったが、心で合掌。施設側の許可を得、パチリ。
 まだ、Kさんの布団やタンス等が残っていたが、夕刻にはご家族が引き取りに来られるとのことだった。アチコチ、多くのGHを覗いて来たが、入所者方々が持参されるモノはいたって少ない。
 この部屋で、新たな主が生活を始めたのは間もなくであった。
 実は、母がデイサービスへ通える日が一日増えた。週4日だったのが5日になった。我が家的には感謝!
 年末年始。入院されてしまったり亡くなられた方々が複数人あったのだ。
 そうなのだ。辛い現実だけれど、これが順番なのだ。
 いずれ、母の通っている日に誰かが通うようになる。何事もなかったかのように!



今日を頑張ろう!

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 福島の原子力発電所は、日々、悪化の一途を突き進んでいるとしか言いようがない。目に見えない恐怖。更には、避難されてるいる方々は、いつ帰宅できるかも全く不透明で先が見えない。
 この原稿は3月16日に書いているのだけれど、岡山でも今朝は冷えた。明日、明後日と冷え込み厳しいとのこと。厳冬が少し緩んだあとだけに冷えがより一層厳しく感じる。
 被災された皆さま。避難所で踏ん張っておられる皆さま。言葉だけになりますが、心よりお見舞い申し上げます。血圧等、体調管理なども難しいと想像できますが何卒ご自愛くださるよう願うばかりです。
 
 さて、避難所での生活ということではオレもシミュレーションをしていた。以前に何回も記してきたが、前の借家は廃屋も同然であった。 
 地震については、これはどうにもならないという覚悟を決めていた。とにかく揺れる。強風が吹いては揺れ、大型車が通過しても揺れた。
 ただ、長く住んでると、地震の揺れか車の揺れかはある程度判断できた。地震の場合だけ、家全体が揺れるのだ。ミシミシという気味悪い音色と共に。
 もっとも、少し先の道路で水道管工事でショベルカーが稼働していたときは、一日中、家は揺れていたのだけれど。このときの音色はメキメキだった。
 危険回避の術である緊急地震速報を認知したとしても、母を抱えて瞬時に逃げ出せるものではない。
 だから、大家さんからも、
 「二人が屋根の下敷きになったらいけないので、次の住家をなるべく早く探して欲しい」
 と、説に懇願されていたのが事実だった。
 ただ、台風では10回前後ほど自主避難した。歩いて15分ほどの距離に5階建てほどの田舎にしては洒落たホテルがあり、そこで母と一夜を過ごすした。母は、このホテルからデイサービスへ出陣したこともある。これは、母が歩ける頃だった。
 アルツハイマーも進行し、歩けなくなり寝たきりになってからは、親しい友人が一人の医師を紹介してくれ、そこの診療所で無理を聞いてもらった。
 自主避難で診療所を利用するとは何事か? お叱り頂戴を覚悟で書いているのだけれど、そうするしか手立てがなかった。
 だから、台風が、はるか日本の南太平洋上に発生という一報があれば、いや、それ以前の熱帯低気圧の頃から気象庁へアクセスして進路予報に一喜一憂していたものだ。
 台風が通過して帰宅すると、側壁が剥がれていたことがあった。雨樋が近所に飛散したことも。この時は、厳しいクレームが入った。
 「あんた等(私たち母子)が、ここに住んでることを迷惑と思っている人もいるからな」
 アルツハイマーの母を抱えての生活に同情ばかりではないのだ。しかし、母と一緒では身動きとれない。そんな声への辛抱は激しいストレスとなった。
 もし、突然に避難勧告が発令され、体育館なり小学校へ避難となれば、診療所へ向かう手立てもないだろう。ご近所方々同様に避難。そこで母のオムツ交換をしなければならないのだ。
 指定避難場所内に親しい親戚でもいれば事情も異なるのだろうが、いない。肩身の狭い思いをすること間違いない。だけど、母を守らなければならないのだ。
 先にシミュレーションをしていると記した。それは、つまり世間の視線や声を覚悟しているということだ。
 母。今、日本で何が起きているのか知る術もない。一生懸命に、チカラ一杯にハンカチなどを握りしめながらベッド上で寝ている。ハンカチやタオルを握らせないと水虫になり、挙げ句、伸びた爪が手の平に刺し込む。
 でも、その一生懸命が愛おしくて仕方ない。日々、踏ん張れる源でもある。
 さあ、とりあえず、今日を頑張ろう!



もし、母と私二人ならば

 この度の地震・津波でお身内を亡くされた多くの皆さまに心よりお悔やみ申し上げます。
被災されたあまりの多くの皆さま。お見舞い申し上げますとともに、お疲れ出されませんようにと願うばかりです。

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 さて、巨大地震が起きた3月11日早朝、母は爆睡していた。噎せることもなく異常発汗もなし。あまりに可愛く見えたもので写真に納めることにした。日の出も早くなり、背景が良い塩梅なので真横から。
 この瞬時、母と二人切りのの生活だけれど、なぜか幸せが込み上げてきた。母の頬を撫でながら、この瞬時の幸福感が失われないように。まだまだ継続できることを切に願った。

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 この日の前日になる3月10日。オレは母の写真を撮りにデイサービスへ出向いていた。
 なぜ? 母の排便の日なのだ。排便を促すためにヨーグルトを食べてからを、今も実践してくれている。母は1週間に1度排便する。させる、が正しい表現かもしれない?
 実は、昨年8月27日にも同様の事を記している。ただ、あの日以降、母に大きな変調があったり引っ越しもした。そんなドサクサを駆け抜けてきたものだから、ヨーグルトを飲むという慣習は無くなっていると勝手に思い込んでいた。
 写真を撮りながら驚いた。母が、必死の形相で食べている。一生懸命そのものだ。でも、これは昨年8月も同じだった。ただ、母が口にしているヨーグルトのトロミ具合。サラサラ感が一層サラサラとしているように見えた。
 嚥下障害。喉を上手く通過させるためには、個人の障害程度によって固形化に配慮・気配りしなけらばならない。オレも極めて注意した。だから、母にこんなサラサラを飲ませた記憶がオレにはない。
 「ワアー! まだこんな飲み物らしいトロミ食が飲める? 食べられる? んだー」
 サプライズ。まだまだ行けるぞ、を体感。母の燃え尽きていないエネルギーを垣間見た気がした。
 
 話を巨大地震に戻します。
 今、被災した方々は、日々を生き残ることだけに精一杯なはず。若く健康な人でさえ、耐え抜くこと尋常ではないと想像できます。
 もし、母と私が同じ境遇下にいたとしたら、二人で生き残ることは可能なのだろうか?
 母を捨ててしまうのではないか?
 深く、真摯に、他人事ではなく、考えさせられる今です。
 



吸引

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 母は入れ歯を装着していた。ただし、上側だけ。下側は、今もシッカリと温存されている。
 さて、母が噎せることが多くなった。以前は、季節の変わり目が顕著で、ワンクール過ぎると噎せは自然消滅するという経過をたどってきた。なので、胃ろう造設前に購入した簡易吸引器の出番も多くはなかった。簡易吸引器といっても正価で買えば5万円ほどの品物。それを、3万円少々で知人が働く介護ショップに依頼して手に入れたモノだ。
 で、ここのところ朝食を済ませてから噎せることが多い。噎せるといっても、母の場合は口中にある唾液が上手く飲み込めない。極端な例えをすると、溺れているような状態に見受けられることもある。
 我が家の場合、母の朝食は4時半からで、1時間ほどで朝食を終える。経管栄養剤エンシュア250ccと白湯250ccを滴下で胃に流し込む。
 1時間ほどで終えるから、その後、2度寝にオレは入る。これがスコブル心地よいのだ。が、ここで噎せが来る。
 今冬の岡山は寒い。母の噎せが聞こえる。布団からは出たくない。葛藤。エイヤーで起き上がる。
 考えなければいけないのは、水分摂取は絶対に必要。ただ、多すぎてもダメ。水分を入れることで口中の唾液もそれに比例して増えるらしい。本当は、オレ的気持ちは、もっと水分を入れたい。
 というのも、母には尿路感染がある。これに対して抗生薬等は使用していない。だから、オシッコをイッパイだして菌を放出したいのだ。しかし、反動。噎せとなって返ってくる。
 今、母のオシッコは汚れが目立つ。以前は、パッドにオシッコが出てるかどうか判断できないほどに透明であったのに。
 で、吸引なのだが、久々にチャレンジ。上手くいかない。挙げ句、母は噛んだ。ニュアンス的には、咬みついた。の文字の方が妥当なような噛み方だった。
 チカライッパイ噛む。ほどほど、がない。結局、カラー写真のように口の周囲は血だらけ。良く観察してもらえれば分かるが、上唇は少し裂けている。下の歯の食い込みなのだ。
 モノクロ写真はショートステイ先で撮ったモノ。勉強してまいりました。
 でも、一人でちゃんとできるかな?



車椅子を部屋に入れるということ

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 まずは、構図を最初から意図して撮った写真が4枚。
 デイサービス職員が押す車椅子に乗った母が、スロープの上を部屋へ部屋へと上がっていく。アルミサッシの窓は寒いので閉まってはいるが、スロープの上まで来れば開けて部屋に入っていく。もちろん、部屋の中は暖かくしている。
 本来ならばオレが窓の奥で待ち受けているのだけれど、意図した写真が欲しかったので、この4枚を撮った後に急いで部屋に入り窓を開け母は入室。車椅子に乗ったままで。敢えてもう一度記す。
 車椅子に乗ったままで。
 さて、3月4日掲載の本ブログで、
 「車椅子を部屋の中で保管しておくということには、かなり葛藤と抵抗があった」
 と記した件を説明したい。
 写真を見てもらえれば分かるのだが、車椅子本体、更にはタイヤも新しいのでほとんど汚れは見えない。だけど、スロープに注目すると一目瞭然。これでも、数日前に箒で掃いたばかりだ。
 スロープ下の地面。ここが、学校の一般的運動場のような土で、土というより微粒な石で構成されているとでも表現すれば良いのだろうか?
 まあ、それは土でも石でもオレ的には同じ。この土なり石が、外部から部屋の中に車椅子に紛れて一緒に入室してくるということにスコブルで違和感を感じた。ストレスはダブルスコブルだ。もちろん、車椅子用にカーペットを敷き、その上には吸塵吸水マットも置いた。
 オレ自身、部屋の掃除などはほとんどしない。母のアルツハイマーが発覚してから、母と一緒に暮らす部屋だけは掃除機をかけた。それも、“四角い角を丸く掃く”などという例えもあるけれど、視野に入らない角などは無視。蛍光灯の笠などは、塵がホンワカホンワカと部屋内に浮き初めてから清掃。いつも、塵はかなりの厚みになっていた。ホンワカ浮いた塵が母の顔や口元に落ちる、などというこも珍しくなかった。
 基本的に、室内で自然に発生する塵や埃には免疫があった。無精からくる免疫だけれど、一人暮らしの頃からこういう生活があまりに長かったので苦にならないのだ。元気な頃の母はといえば、それはそれは清掃の神のようであったけれど。
 ところが、車椅子をレンタル。この車椅子を室内だけで使用するなら全く問題ない。もっとも、車椅子で家内移動するほど借家に部屋はないのだが。
 「ちゃんと、入室するときにタイヤを雑巾で拭けばいいのよ」
 介護職に問えば、当然のようにこんな声が戻ってくる。それもストレスなのだ。
 以前の家では、オレが母の脇から両手を挟み込んで上半身を支える。お迎えの介護職員が脚を支え、部屋から車へ移乗させていた。帰宅時はこの逆になるのだが、簡単なことだった。
 しかし、スロープを置き、車椅子で移動し、挙げ句にタイヤをキレイにするために雑巾がけ。オレ的には、なんだかとーーても仕事が増えた感じだった。体力的には些細なことなのだが、精神的にはとてもハード。
 確かに、母を運ぶに際して、腰への負担は軽減されること間違いない。介護職員も同様。
 結局、嫌々ながらもこのシステムで母をデイサービスへ送迎することにした。以前は6キロほどの距離があったデイサービスも、今では直線距離で50メートルほどに。だけど、この車椅子の件で、今まで以上にデイサービスへの距離が長くなった気が当初はした。職員たちとも。イライラが募り、お迎えの若い職員二人に喧嘩腰の言葉も吐いたりもしたから。
 とはいえ、今、このシステムがほぼ当たり前感覚になって、やっとデイサービスが近所に位置することを体感している。
 人間、ストレスの源&有り様は十人十色? それとも、この車椅子の件はオレだけなのだろうか?
 今の借家への転居で誤算はまだあった。聞けば、この運動場モドキの空き地兼駐車場には、雨が降りだす季節から雑草が元気に生えだすそうだ。
 草刈り。
 嗚呼ーー! ストレスだ。



新たなデイサービス出陣風景

デイサービスへの出陣風景が大きく変わった。
車椅子をレンタルしたのだ。
まあ、オレの腰への負担軽減等、
いろんな意味が含まれた車椅子レンタルだけれど、
とりあえず、その流れを写真で紹介したい。
ただただデイサービスへ近いから、
というだけで借りた新居にはかなり誤算があった。
車椅子を部屋へ持ち込む。
そして、部屋の中で保管しておくということには
かなり葛藤と抵抗があったけれど、
その辺りは次回記す。

1 午前8時50分頃、デイサービスへ向け出動用意開始。
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2 着替えるために、室温を22度から24度あたりに。オレは長袖シャツ一枚に。 暑い!
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3 靴下 ズボン下 ズボンを履かせて車椅子へ。車椅子への移行が、まだ上手くいかない。
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4 車椅子へ座っての着衣の方がオレには楽。車椅子は左右の肘掛けが上がり後方へ。
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5 上は終わり。肘掛けを下ろす。
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6 靴を履かせる。右足が尖足で伸びきるので、キッチリと固める。でも、この巻き方でOKなのか?
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7 デイサービス職員到着
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8 外から見ると。
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9 部屋から出る
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10 車椅子のタイヤが汚れないようにカーペットを敷いている。ここからヨイショ! 職員一人のときはオレが脚係。
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11 車を道路真ん中には無理なので道路脇に駐めてある。
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12 そーーーれっと!
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13 車中へ。
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14 デイサービスへ出陣後、車椅子は部屋の中へ カーペットを敷き、その上にダスキンの吸水吸塵マット。
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藤川幸之助さん

 藤川幸之助氏の講演に出向いてきた。
 2月24日木曜日。講演会場は姫路。
 “平成22年度 第2回 姫路市社会福祉協議会公開研修”
 姫路市民会館第6会議室。大会場ではなく、かといって小さな会議室というわけでもなく、ほどほどの空間があり定員100名の会場としては快適空間だった。
 オレ1人で参加したわけではない。懇意にしている介護関係者も2人。計3人だった。オレたちは前から2列目。右斜め上に藤川氏を見る位置に陣取った。距離にして4メートル弱ほどか? 
 “満月の夜、母を施設に置いて”で藤川氏を強く認知し、“まなざしかいご”についてのオレなりの書評は昨年8月3日にこの場で触れた。
 藤川幸之助という人物へのオレなりのイメージはあった。それは、この2冊の本から感じ取ったものだった。
 “まじめ” “優しい” “知的” “良識人”
 こんなところがイメージとしての藤川幸之助であり、そう思い込んでいた。
 藤川氏が会場へ到着。なにやら笑顔を振りまいている。愛想が良い。主催者である姫路市社協の方々であろう人たちと名刺交換してる姿は、稲穂を想像させられた。頭が低いのだ。正に、
 実るほど頭を垂れる稲穂かな
 オレの脳が震度2程度に揺れる。オレの推察とは違う人物像が脳裏に浮き上がってきたからだ。
 そうこうしているうちに開演時間も迫る。藤川氏もアチコチへと忙しそうだ。トイレも済ませておく必要があるだろう。
 そんな最中、オレの横を通り過ぎようとする藤川氏が方向転換して
 「野田さんじゃないですか?」
 基本的にはオレから挨拶しなければならないのに不覚を取った。けあサポ編集者から、オレが講演を聞きに行くことを伝えてもらっていたのだ。
 「だから、それで?」
 でも変ではない。オレからすれば格違い。
 ところが、いきなり声掛けされたオレは直立。
 「どうも!」
 なんて言うのが精一杯。真正面1メートルも離れていない距離に藤川氏の満願の笑顔があるのだから。オレが抱いていた藤川幸之助のイメージが完全に弾けた。
 瞬時に感じた。
 近い! と。
 そうなのだ。市井の人。藤川幸之助は身近な庶民であるのだ。
 ここから、感覚的に“藤川幸之助氏”から“藤川幸之助さん”へと、親近感が以前のイメージを駆逐することとなった。 
 藤川さんの講演内容についても認めなければならない。
 
 タイトルは
 支える側が支えられるとき
 サブタイトルは
 ~認知症の母が教えてくれたこと~

講演開始
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 講演時間は13時半から15時半の2時間。途中休憩なしのぶっつづけではあったが、2時間という時空間はアッという間の高速で過ぎ去った。本当に速かった。
 つまり、安易な表現かもしれないが面白かったのだ。それも、極めて。
 確かに、藤川さんの話した内容は深く重い。悲痛でもある。
 藤川さんが語り、CDからはプロのアナウンサーが朗読する詩が流れもする。藤川さん本人の詩の朗読もある。充実。オレ的には、藤川さんの朗読より、やはりCDから流れるプロが語る朗読に目頭熱くさせられた。これは致し方ないところだ。

まなざしかいご 朗読中
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 藤川さんは喋る。間髪入れないほどにマシンガントーク。一生懸命が伝わってくる。オレたちを舐めたりはしていない。
 そこにいた藤川さんは、評論家ではなく、詩人でもなく、一人の認知症の母を介護する一介護者だった。だから、自ずからチカラも入るのだろう。説得力は重厚だ。

語りかける
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 良い話はイッパイあった。だから触れない。触れると、この原稿の終わりが見えなくなるから。

ご両親
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 とはいえ、オレが、これは良いなあ! こうでないとなあ!
 と感心したのは、お母さん、お父さんの写真を取り込んでいることだった。
 お母さん。見る側からは、お母さんの厳しい写真もあった。
 藤川さんにはお兄さんが一人いるのだが、
 「お母さんのことは幸之助に頼む」
 と遺言を残されたお父さんの写真も画面に現れた。藤川さんがお母さんを看るまではお父さんが介護されていたとのこと。九州男の子。やりますなあ!
 父や母の介護。重く、哀しく、辛く語るのは難しいことではない。オレもそこそこ講演してるから。でも、
 「ああ楽しかった。もう一度でも二度でも聞きたいなあ!」
 と後味に残る語りは希だ。
 改めて記す。けっして軽くない。だけど、笑えるのだ。ストレス発散にもなる。
 まとめ。
 藤川幸之助とは?
 生活感溢れ、印税の額が気になりつつも気さくで楽しい介護実践者。
 
 一度、煮込みなどを肴に一緒に呑めたらなあ!

とても気さくな方でありました 岡山軍団と
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講演後 著書へのサインも和やかに 印税も気に掛かることと\(^O^)/
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ナイスであります
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プロフィール
野田明宏
(のだ あきひろ)
フリーライター。1956年生まれ。約50カ国をバックパックを背負って旅する。その後、グアテマラを中心に中央アメリカに約2年間滞在。内戦下のエルサルバドルでは、政府軍のパトロールにも同行取材等etc。2002年、母親の介護をきっかけに、老人介護を中心に執筆活動を開始。2010年現在、83歳になる母と二人暮らしで在宅介護を続ける。主な著書は『アルツハイマーの母をよろしく』『アルツハイマー在宅介護最前線』(以上、ミネルヴァ書房)など多数。『月刊ケアマネジメント』(環境新聞社)にて、「僕らはみんな生きている」連載中。
http://www.noda-akihiro.net/
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