母のこだわり
母が好きだ。母が愛おしくてたまらない。この世に生を授けてくれてありがとう。
過去、何度もこんな表現をしてきた。恥ずかしさや照れなど全くない。母の子で本当に良かったと心の底から感謝している。
とはいえ、母は拘る女性だった。息子として、初めて母の偏屈なまでな拘りに向き合うことになったのは、29歳のときだった。
オレはこの頃、一人の女性と付きあっていた。東京で、孤独と孤立の中に埋もれるのはこの女性と別れてからだった。
29歳。振り返れば、オレも30歳を目前に、どこか焦りがあったように思う。3年ほど交際している女性がいることを母に知らせた。女性の名はJ子。その後、しばらくして岡山に帰省したとき、母とJ子についても話した。母はこんなことを言った。
「J子さん、良さそうな娘さんじゃなあ! 電話口でもハキハキとして。じゃけどなあ、結婚したら野田J子? これは良うないなあ。画数が悪いもん。じゃから、名前を変えてもらわんといけんよ」
真顔だった。オレは絵文字どおり、正に(○_○)。
29歳にして強く不安を感じた。
「オレは、正しい結婚は無理だなあ!?」
結果としては、そんな心配は杞憂ではあったのだけれど。今、オレが独身である理由。オレのオトコとしての器量不足からで、母の偏屈を呼び覚ますまでに至ることはなかったのだから。
偏屈と記したが、これは性格なのかもしれない。名前の画数で類似するのは、印鑑だ。オレは、認め、銀行印、そして実印の3つを持っている。父もそうだった。母自身は認めだけだったが、全てが吉相印というヤツだ。全て、母が揃えた。それも象牙ときている。身分不相応。動物愛護の視点からは著しく悪。
ただし、母に言わせれば、印鑑で人生が決まるそうなのだ。もっとも、名前の画数でも人生が決まるのだけれど。
極めつけは父が入退院を繰り返していた頃のことだ。いや、もうこれは事件だ。
思い出すと、今でも腸煮えくりかえるので簡単に記すが、母は父の病回復のために2度の祈祷に300万円を費やしている。神仏にすがることをオレは否定しない。しかし、母は心の隙間を狙われた詐欺行為に巻き込まれたこと必至。
オレは、祈祷してくれたという所へ電話を入れた。新聞などにチラシも入っていたので名前だけは認知していた。必死にも近い精神状態のオレからの問い掛けには、
「息子さん、どうか一度、私たちの所へ来て下さい。見えないチカラというのは存在するのですよ」
見えないモノを見る、チカラをオレは持ち合わせていない。電話では埒が明かない。かといって、遠路、訪ねることも無意味。泣き寝入り。
ところが、母は祈祷してもらったお陰を切々と説くのだった。真顔であった。
世間のアチコチで、今も地球のアチコチで使用されているだろうフレーズ。
「皆、いろいろあるから」
正に、この言葉に集約される。
さて、最後に一点。
孫を欲しがった母だったけれど、では、オレが結婚していたら母は嫁さんと仲良く暮らせたのだろうか?
もし? を想像しても仕方ないのだが、ちょっぴり興味がある。
コメント
300万円ですか
周囲から見てると痛いですね、この金額は。
でも、お母様は納得してた。
難しい。
名前にこだわる人、私の周辺にもいますよ。
戸籍では替えられないので、
普段、生活の中で使用することで開運する
みたいなことを伝導されてますね。
楽しそうなんですね これが。
周辺が迷惑してることを理解してくれない。
難しいです。
私も、敢えて波風立てたくないですから。
熊夫さま
人生、価値観のバリエーションは豊富です。
時々、ボクはついて行けません。
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