母からの恩
10月29日掲載の内容と矛盾する。少なくない読者はそう思うに違いない。まあ、それはそれ。個々の人生、方程式のごとくではないのだから。
オレは、東京で孤独というより孤立感にさいなまれているとき、母にときどき電話を入れていた。
カネがない。オンナがいない。住むところがない。とはいえ、極めてキツカッタのは夢を失っていたことだった。文字どおり自業自得だったのだが、親しい友人たちまでオレから去って行った。
自由奔放に生きるオレに愛想を尽かせてのことだった。30歳になろうとしても定職につかず、フリーターとして生きるオレに嫌気がさしたのだろう? オレの方も、オレの生き方を否定されることに憤慨もした。それが、オレの方からも友人たちを避ける結果になっていた。
なにもナイナイずくしで持ち合わせていたのは借金だけだった。八十万円ほどあった。街金で借りたことはないけれど、ローン会社で月々の返済分を借りては返すを繰り返していたので、元金からかなり膨れ上がってしまっていた。
オレはキャバレーに職を求めた。もっと詳細に記せば、ピンクサロンという所だ。部屋がないので店泊させてもらうこともお願いした。店泊というのは、その店が営業を終えたあと、店に泊めてもらうということだ。だからといって給料から差し引かれることもない。
もっとも、深夜、ネコのようなドブネズミ数匹が店内を走り回る。餌があるのだ。オレは、強者どもの夢のあと、ともいえるソファーに横になり汚い布団を頭から覆って毎夜を耐えた。耐えないと行くところがなかった。
孤独だった。独りきり。
新宿。東京のど真ん中という歓楽街で孤立していた。
頼るのは母だけだった。百円玉1個に十円玉数枚を持って電話に向かう。当時は、アチコチに公衆電話があったから。
母に電話をする。もしもし。母の元気な声が聞こえてくる。
オレ「元気そうじゃなあ」
母 「どうしたん? 元気なん?」
オレ 「まあまあ かな?」
母 「あんたは、これからじゃから頑張るんよ。私は信じとるから」
もう、ピーという料金切れ間近のサイン音が流れる。
オレ 「悪いけど、1万円、振り込んでくれる?」
電話からは、もう母の声は届かない。料金切れ。自己嫌悪。
翌日昼、オレは銀行に向かう。1万円がシッカリ入金されている。そして毎度のことだが、この1万円を持って居酒屋に向かう。独りで飲むために。瞬時、ストレス・哀しみから解放される。
全然、格好良くない人生。母に助けてもらうばかりだった。
だから、だ。オレは、まだまだ母のそばで一緒に過ごしたい。
恩。
今、オレの目頭が少し熱くなっている。
コメント
野田さま
はじめまして。
北陸地方に住む介護者です。
野田さん同様に母を在宅介護しています。
といいましても、まだ母は一人でなんでもできます。
見守りのために同居している、
と訂正した方が良いのかもしれません。
家業の合間にパソコンと睨めっこできる環境下ですから
母を見守るのも楽なんですね。
さて、母というのは凄いですね。
甘やかし、
と、問われても当然なのに。
お母様の心中を察すると、複雑だったと想像できます。
親不孝。
私も、いろいろとやりました。
これから少しづつでも介護の勉強なりして、
本番の備えたいと考えています。
また、寄らせてもらいます。
mac野郎 さま
はじめまして。
コメント ありがとうございます。
そうですね。
母は甘えさせてくれましたね。
ただ、子供の頃は厳しく、
小 中 高校までの11年4ヶ月を皆勤しましたが、
これは、母の厳しさからでした。
高校時に補欠番号ながら甲子園に出、
これが唯一、母孝行の形かもしれません。
このときだけは、母が他人様を前にして泣きました。
いろんな母が、脳裏の引き出しから蘇ってくる今日この頃です。
また寄ってください。
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