母の異変
11月27日。東京のホテル・グランドパレス内で100人ほどを前に講演をさせていただいた。
第5回ありがとう介護研究会
これについては改めて報告したいのだが、この講演に出向く少し前から母に異変が起きた。胃ろう造設後、3年と少しが経過したが、ここまで長閑に過ごしてきたので改めて在宅介護者であることを認識させられた。
で、東京に出陣となると母はショートステイへ。今回は普段と異なる状態なので、ショートステイへはかなり詳細にメールで知らせておいた。
まあ、読者方々の参考になるか? 不透明ではあるけれど、オレはこんな手段でいろんなお願いをしている。
とはいえ、ここまでになっても母がお世話になっているデイサービスは、もう無理、などとは一言も発しない。感謝ばかり。
本当に、ありがとう だ。
以下が、そのメール。
Kさま
お世話になっております。
さて、26日から29日までヨロシクお願いします。
今回、正直、あまり東京に脚が向かない気分なのですが、
どうしても講演をパスするわけにもいかず、です。
というのも、母にかなり変化があったのでお知らせしなければなりません。
時系列で説明すれば、
18日
デイサービスで座位をしているときに、突然に顔色が悪くなり、冷や汗をかなりかいていた との報告。
以下のようなメモをもらいました。
まあ、一過性のモノかな? その前に便を出していたということもあり、深く考えなかったのですがね。
で、22日、デイサービス
寝ている状態でかなり発汗して、顔色も悪くなっていた とのこと。血圧等は計測なし。
帰宅時にも発汗が激しくシャツの上の薄いトレーナーまで汗が滲んでる状態。
顔色は良く、これは暑かったのかもしれません? 難しいところです。
そして、23日の今日。
午前、普段どおりに座位をさせようと椅子に座らせるも、緊張状態で腕の拘縮もガチガチで一人で服を着せること不可能。
で、背中に手を触れると少しの発汗。そこで座位は中止。
昼食後、またかなり発汗。この場合は顔色もピンク色で表情も穏やか。
しかし、どこかに異常が起きてることは間違いないと思います。
それと、腕の拘縮もですが、脚の拘縮が著しく、寝ていても常時、膝が立っているのです。
その上、膝が内側に向きはじめており、膝と膝がガチンコし、床ずれモドキになりそうなのでバスタオルを宛てています。
この写真では、バスタオルが下にずれてます。もう少し上、膝と膝がぶつかるところに宛ててます。
熱ですが、37度8分のときもありましたが、こもり熱のようで、脇を空けて5分して計測すると7度2分 などという感じです。
母は、7度少し超えは平熱範疇です。
なので、半袖シャツは10枚以上持たせます。タオルも多め。
それと、今回、血液検査してもらえますか?
私はアルツハイマーが一段進んだと理解しているのですが、
とりあえずお願いします。
18日は往診日だったのですが、肺 心臓音に異常はないとのことでした。
結論ですが、どうも、興奮して緊張するにのでは? と 素人推測をしています。
こんなわけなので、送迎時にも発汗するかもしれません。
できれば、Kさんのお迎えが助かるのですけれど。
同乗して行きたいのですが、26日夕刻に東京で約束が一件。
それから、携帯のメールアドレスもお知らせしておきます。
xxxx@xxxxxxxxxx
とりあえず、大雑把にはこんなところです。
お手数かけますが、ヨロシクお願いします。
野田明宏
母孝行 日本一番さん
父を介護していた15年前頃か? 母を介護し始めてからのことなのか? いつ? どこで? どんな環境下で読んだのかは全く記憶にないのだが、母孝行についての話がとても興味深かったので今もオレの脳裏に焼き付いている。
詳細な部分まではキッチリとは記せない。焼き付いてはいるが、段々に焼き具合も弱まってきているから。まあ、以下のような主旨・内容だったはず。遠い昔話ではない設定のようには想像できる。
四国一番の母孝行息子と評判の若者がいた。日が昇ると同時に田畑へ出向き汗を流し、日が沈むまで農作業に勤しんだ。帰宅すると直ぐに母親の夕食作り。風呂を沸かし、入浴した母の背中を流す。母親が風呂から上がれば、脚をさすり肩を揉む。それはそれは上げ膳据え膳。
ある日、四国一の母孝行息子に一つの噂が届いた。信州に、日本一の母孝行息子がいる、と。四国一番さんは動揺した。四国一との評判は承知していたが、自身は日本一と秘かに自負していたのだから。
いてもたってもいられず、四国一番さんは信州へ出向いた。この間、母親の世話を誰がしていたのかは記されていなかったと思う。
信州に着き、日本一番さんの家を訪ねた。ここも農家だった。自己紹介をし、どのような母孝行なのかを見学させてもらった。
日本一番さんも若い。仕事は四国一番さんと同じで早朝から日が落ちるまで良く働いていた。ところが、帰宅してからは四国一番さんとは全く異なった。
帰宅する。まず縁側で、母親に汚れた足をお湯で洗い流してもらう。風呂も沸いており、母親が、
「今日も1日お疲れさま」
と、背中を流してくれる。挙げ句、風呂上がりの晩酌後、母親に肩などを揉んでもらってるではないか? 四国一番さんは失望どころか怒りさえこみ上げてきた。押さえきれなかった。
「こんな遠いところまで来たワシがバカだった。あんたのどこが日本で一番の母孝行なんだ? 母親に肩を揉ませる罰当たりなヤツが」
それを耳にした日本一番さん。怒るでもなく、
「日本で一番の母孝行などとは世間が勝手に言ってること。ワシは、母親がワシに、してやりたいということをしてもらっているだけなんだ」
お疲れさまでした。お話は終わり。オレからのコメントもなし。ただ、親孝行という意味合いにおいて、深く考えさせられることは事実だと思う。
さて、オレはある研究会に所属している。なので、2ヶ月に1度、東京に出向いているのだけれど、この研究会、まだ正式名称がない。とりあえず、NTKKとでもしておく。
NTKKは十数人の研究会。いずれ発会式なども計画しているようだけれど、アカデミックな世界からの参加者も数名。現役在宅介護者はオレ一人。だから、定義と感情論がぶつかり合う。時々、オレだけ浮いたりもする。
で、ここでも、胃ろう造設是非が問われることが多い。多いというか、今はこの議論に傾注している。
いろんな意見・声が出るのだが、スコブル新鮮な意見が飛び出た。大手マスコミ関係に所属するアラフォーには届かないであろう女性から。
「私個人が胃ろうを造設するか否か? と問われれば完全にNOです。だけど、私の母が、私にもっと生きていて欲しい、という願いから胃ろう造設を希望すれば、私は母のために胃ろう造設をしてもらうことに承知します。喜んで」
世間では、お年寄りの胃ろう造設是非論議で花盛りだが、まだ中年に届かない病人の親が、我が子のために胃ろう造設云々まではオレも思考の外だった。彼女、取材で小児医療とも関わっているとのこと。
やはり、生きる過程で視線・視点も異なってくる。
母孝行についても、四国一番さん派と日本一番さん派に別れるところだろう? ただ、書き終えて、時代錯誤も甚だしい、とお叱りを頂戴するような気がしないでもない。
が、いつまでも、このような語りが継承されることも大事なことだと確信している。
エアマット交換
母が使用しているエアマットを替えた。時系列で写真を貼ると、以下のようになる。
母が胃ろう造設をして以降はベッドでの生活となり、褥瘡が恐いのでエアマットを使用するようになった。この10月31日までの3年3ヶ月、ADVANを利用してきた。とても良いモノだった。一度だけ空気が抜けて、点滅している黄色が赤色に変わったこともあったが、確実に注意信号を発してくれたので直ぐに交換してもらった。
では、なぜCRADEに切り替えたか?
まず、オムツとか尿取りパッドを購入している会社と全てを同じにしたかった。今までは、エアマットとオムツ等を買い入れる会社は別だった。普段、頻繁に顔を合わすのはオムツを運んでくれる女性。月に最低2度は我が家に来る。そうこうしているうちに情も湧く。デジタル時代と言われるけれど、人間関係はアナログだ。
次に、母の背中の表皮剥離以降、ときどきその部位の赤みが増す。褥瘡の前兆でもある。なので、自動体位変換できるモノとしてCRADEにグレードアップした。
なのだが? ウーム?
確かに自動で体位変換はできる。角度も8度 15度 20度と3段階を選択でき、30分モードのボタンを押しておけば、右向き 上向き 左向きを順次30分おきに繰り返してくれる優れもの。新しい製品を届けてくれたとのことで、モーター音が小さいのも嬉しい。
ただ、体位変換するためにエアマットが膨らむ。それも片側の真ん中の背に当たる部分だけが。つまり、左に顔を向けたいとすれば、エアマット右側背部が膨らんでくるわけだ。
写真には撮った。が、見た目とかなり異なるように見えるのでここに貼り付けるのは控えた。もし、その膨らみ方を見たい方は、検索かけて見て欲しい。私はヒットしなかったけれど。
つまり、膨らみ方がかなり歪にも見えるのだ。だから、自動体位変換は使用していない。オレの腰の負担げ激減するはずだったのに。
そうそう。腰の負担については、以前のADVANの方が軽かった。フラットの状態のとき、CRADEは母が寝ると腰から臀部の辺りがADVANより沈むのだ。これは、パッド交換時キツイ!
とはいえ、これはオレ個人のCRADEに対するイメージであることにすぎないことだけはここに付け加えておく。読者方々には、自分の目と感触とで判断していただければと思う。
たぶん、そう遠くない日、最初のADVANに替えようと考えている。
最後に写真を一枚。元気な若者二人。お約束なので、エアマット搬入時の写真を貼り付けてエアマット交換騒動記を終える。
母からの恩
10月29日掲載の内容と矛盾する。少なくない読者はそう思うに違いない。まあ、それはそれ。個々の人生、方程式のごとくではないのだから。
オレは、東京で孤独というより孤立感にさいなまれているとき、母にときどき電話を入れていた。
カネがない。オンナがいない。住むところがない。とはいえ、極めてキツカッタのは夢を失っていたことだった。文字どおり自業自得だったのだが、親しい友人たちまでオレから去って行った。
自由奔放に生きるオレに愛想を尽かせてのことだった。30歳になろうとしても定職につかず、フリーターとして生きるオレに嫌気がさしたのだろう? オレの方も、オレの生き方を否定されることに憤慨もした。それが、オレの方からも友人たちを避ける結果になっていた。
なにもナイナイずくしで持ち合わせていたのは借金だけだった。八十万円ほどあった。街金で借りたことはないけれど、ローン会社で月々の返済分を借りては返すを繰り返していたので、元金からかなり膨れ上がってしまっていた。
オレはキャバレーに職を求めた。もっと詳細に記せば、ピンクサロンという所だ。部屋がないので店泊させてもらうこともお願いした。店泊というのは、その店が営業を終えたあと、店に泊めてもらうということだ。だからといって給料から差し引かれることもない。
もっとも、深夜、ネコのようなドブネズミ数匹が店内を走り回る。餌があるのだ。オレは、強者どもの夢のあと、ともいえるソファーに横になり汚い布団を頭から覆って毎夜を耐えた。耐えないと行くところがなかった。
孤独だった。独りきり。
新宿。東京のど真ん中という歓楽街で孤立していた。
頼るのは母だけだった。百円玉1個に十円玉数枚を持って電話に向かう。当時は、アチコチに公衆電話があったから。
母に電話をする。もしもし。母の元気な声が聞こえてくる。
オレ「元気そうじゃなあ」
母 「どうしたん? 元気なん?」
オレ 「まあまあ かな?」
母 「あんたは、これからじゃから頑張るんよ。私は信じとるから」
もう、ピーという料金切れ間近のサイン音が流れる。
オレ 「悪いけど、1万円、振り込んでくれる?」
電話からは、もう母の声は届かない。料金切れ。自己嫌悪。
翌日昼、オレは銀行に向かう。1万円がシッカリ入金されている。そして毎度のことだが、この1万円を持って居酒屋に向かう。独りで飲むために。瞬時、ストレス・哀しみから解放される。
全然、格好良くない人生。母に助けてもらうばかりだった。
だから、だ。オレは、まだまだ母のそばで一緒に過ごしたい。
恩。
今、オレの目頭が少し熱くなっている。
いしいさん家で癒された
11月9日、台風並みの暴風が全国で吹き荒れた日。オレは、千葉市花見川区柏井にある“いしいさん家”を訪ねた。
映画『ただいま それぞれの居場所』のポスターを独占している石井さん。その石井さんが経営、経営? なんか違うなあ正しいんだけれど…
石井さんが仲間と働いている“いしいさん家”で、午前9時半~午後7時半ほどまでを過ごした。因みに、『ただいま それぞれの居場所』は、平成22年度文化庁映画賞〈文化記録映画大賞〉を受賞している。
“いしいさん家”を訪ねたのには、もちろん理由がある。なんだか、猛烈に人間関係と人生に疲れた。どこかに行きたくなった。
塩梅は良かった。母がショートステイへ3泊4日で出向く数日前だった。
癒されたい!
これが素直な心境だった。
石井さんは、映画の中でも語っている。
「いろんな人がいていいんだよ」
オレも、人生に凹んだ、いろんな人の一人だった。
石井さんとは、オレも加わっているKOBUの会(7月23&9月7日掲載)で新宿で一緒に飲んだ経緯がある。広島から東京へ向かう新幹線のぞみから岡山駅で下車してもらい、わずか1分ほどだったが会話する余裕もなく微笑み会って別れたこともあった。
映画を観た。一緒に飲んでる。岡山駅では、奥さんと3人のお子さん達にも会っている。
「ヨッシャ! “いしいさん家”のリアルと遭遇し、パワーをもらおう」
“いしいさん家”での詳細についてはここでは触れない。
だけど、“いしいさん家”のいろんな人たち。職員方々、利用者方々に接し、オレの心は蜘蛛の巣から解き放たれた。
ただただ、今回はそれだけを記したかった。
もっとも、一言でも感想を! となれば、
“いしいさん家”は、石井さんばかりが注目されているけれど、石井さんと距離感なく語れる・語る仲間の存在が大きいと、そのお仲間たちに囲まれてオレは真摯にそう感じた。この仲間の存在なくして“いしいさん家”はありえない。
写真はかなり撮ったけれど、400枚ほどを保存した。お宝になった。
また行くぞ!
母とオレの距離
吉田拓郎の曲の中に“君のスピードで”というのがある。オレは携帯の着信に利用させてもらっているのだけれど、この曲を知ってるという人は少ない。
出だしはこうだ。
♪こんなに人を愛せるなんて また一つ世界が拡がったようだ♫
この歌詞の愛は恋人を指すものだけれど、この曲を聴いて改めて思った。
オレは母を愛してる。もちろん、オレのおかあちゃんである母としてだ。更に、母に愛情を感じることで、オレの世界はグーーンと拡がった。つまり、母を一生懸命に介護することで新しい価値観も芽生えた。気恥ずかしいけれど、優しさ、かな?
ただし、母を愛してるとオレ自身が認知したのは、アルツハイマーの混乱期をくぐり抜け、母が胃ろうをして寝たきり失語状態になってからのような気がする。どのあたりから? とは明確に判断できない。いろんな壁を乗り越えるうちに段々にと、が正直なところだと思う。
もっとも、母がアルツハイマーを発症する以前。オレと母の関係はとてもヨロシクなかった。その一例として、母と二人だけで旅したことを振り返りたい。最初で最後の二人旅。それも日帰りだったのだが...
あまり確かな記憶はないのだけれど、父の四十九日が過ぎて直ぐだったはず。母と一緒にオレは“嫁いらず観音院”を訪ねた。
“嫁いらず観音院”というのは、アバウトに説明すると、
『嫁の手を煩わすことなく健康で過ごし、寝たきりなどとは無縁で最後は平穏に』
と、霊験あらたかなことから願掛けに出向くお年寄りたちで賑わっている。関西方面に多いポックリ寺をイメージしてもらえればOKなはず。
とはいえ、もうかなり以前だけれど、あるポックリ寺の住職が脳梗塞? で倒れ、そのままポックリ逝けず寝たきり状態であると、なにかの紙面で読んだ記憶がある。
笑い事ではない。ポックリ逝く、ということは難しいのだ。というか、あまりに医療技術が高度化し、逝かせてくれない現実。良くも悪くも、生きるも死ぬも難しいご時世である。
“嫁いらず観音院”というのは、岡山県井原市にある。位置的には、岡山県中西部あたりか? 我が家からは、JRを振り出しに岡山駅で別の線に乗り換え、バスに乗り、最後はタクシーを利用することになる。スムーズであれば、時間にして3時間半ほどの距離。
言い出しっぺはオレだった。オレが子供の頃、母は父に頻繁に叩かれていたけれど、退職する数年前から主導権は母に移行していた。老いてからは病のデパートのような父だった。母を頼らずには生活もままならない状態でもあった。だから、母は父に寄り添い励まし、ときには活を入れることが生き甲斐であったようにも見えた。
その生き甲斐が消えた。オレにはどうしようもないことだったけれど、“嫁いらず観音院”を参拝したいと願う母の気持ちは承知していた。
ところが、出発はしたものの話すことがないのだ。オレの反抗期以降、母と口論になることは多かったが、向き合って真摯に話し合ったことはなかった。確かに、父の入院等のことでは日々話し合っていた。でも、他の単なる世間話のようなことさえもしていなかった。
オレはなんとか話し掛けようと努力した。喉まで来て本当に出掛かっている言葉。しかし、喉から先へ進まない。結局、オレと母は帰路の岡山駅まで会話らしい会話をせずに戻ってきた。
“嫁いらず観音院”近くで昼食も一緒にしたが、気まずい食事だった。母も、息子であるオレに誘われたから無理をしたのだと思う。
母と一緒に街を歩く。街で食事をする。若い頃から、そんなことは照れくさくて出来ない、したくないオレだったから。
岡山駅で、オレは缶コーヒーを二缶買った。一缶を母へ。
「ありがとう」
母が照れくさそうに言った。オレは無言で手渡していた。
飲み終え、オレはその缶を自動販売機のそばに置いて歩きはじめた。すると突然、母から厳しい声が向けられた。表情がついさっきまでとは異なり、凜としている。
「ちゃんと、ゴミ入れに捨てなさい」
これだけだった。しかし、その瞬間、母は母になっていた。
オレは舌打ちしながらも、缶をゴミ袋に入れた。舌打ちはした。だけど、これは照れ隠しだった。厳しい母がそこにいた。
叱られたけれど、嬉しくなった。そして、そんな母の子で良かったと、つくづく思いながらその先の帰路に向かった。
今、オレは認知症の母を介護している。失語して寝たきり。でも、オレからすれば、今のオレたち二人の会話は豊富だ。オレからの一方通行かもしれないけれど、照れも遠慮もなしにオレは母に語りかけられる。
もう、喉で詰まることは決してない。
デイサービスの近所を散歩中
06年5月10日
Photo 渡邊寛之
石飛幸三先生
10月31日。東京へ出向いた。オレも加わっている認知症を研究する小さな会で、
『口から食べられなくなったらどうしますか“「平穏死」のすすめ”』
の著者である石飛幸三先生が話してくれることになったからだ。
話はスコブル面白かった。正直、面食らった。あまりにザックバランなのだ。特別養護老人ホームの実態というのが、お話しを聞きながらつぶさにイメージできる。とにかく分かりやすい。
石飛先生は、東京にある特別養護老人ホームの配置医。配置医? 簡単に言えば、常勤で勤務しているということだ。
本来ならば、ここで先生のお話の論評などを記す義務がオレにはあるように思う。でも、それは控える。先生の本意を上手く伝える自信がオレにはないからだ。
ただ、先生のお話に頷ける下地がオレにはあった。
母を、ある特別養護老人ホームのショートステイに預けたいと考え、見学に出向こうとする以前のできごとだった。母が胃ろう造設した3年と少し前になる。
そのホームの現場責任者はオレの古くからの知人だった。見学したい、とオレは電話で知人に伝えた。すると、
「野田さん、今、入居者さんも胃ろうの人が増えました。ショートステイでも胃ろうの方を受け入れてますが、実は、現場看護師の方から、もうこれ以上は胃ろうの方を受け入れないで欲しいと強く言われてるんですよ。なので、本当に申し訳ないのですが、私のところでお母さん受け入れられないんです」
オレが遭遇した現実だった。
さて、石飛先生。体育会である、とご自身からの言葉。先生のお話が面白く、課題が重いにもかかわらず楽しく愉快に、厭きずに聞ける原点はそこにありそうだ。
ケツまくる
なんて言葉も飛び出し、オレは大笑いしていたから。
これを読まれてる皆さんにオレは強く推奨する。
石飛先生の講演が聞ける環境にあれば、是非とも会場へ向かってください。
オレも東京日帰り強行軍だったけれど、帰路は充実感でイッパイだったから。
以下、写真で綴る簡単な石飛先生ストーリー。
座骨神経痛
在宅介護者であろうが介護職人であろうが、介護の現場に身を置き被介護者と真正面から向き合い支えていれば、腰痛と縁がないという人は少ないはず。オレも座骨神経痛という厄介なモノを抱えて4年ほどになる。
初めて異変に気づいたのは、母が脱水症状を引き金に入院中。個室へオレも泊まり込んでいたから、その個室のシャワーを浴びてるときに、左臀部の奥に突き刺すような痛みを感じた。腰ではなかった。
軽い痛みは日々続いた。なんだろう? と想いながらも、特段に悪化もしないので気づかいながらも放置しておいた。
とはいうものの。特段に悪化はしなかったけれど、段々に痛みが増していく自覚はあった。数ヶ月が経過した頃、スーパーに出かけ、レジで支払いをする頃には左脚が痛くて立てない状態になっていた。自転車から下りてスーパー内を歩く。300メートルも歩いてなかったような気がする。
左臀部から下、左脚の外側側面の痛みは半端ではなかった。この頃には、腰にも痛みは拡がっていた。
近所の整形外科を訪ねた。レントゲンを撮ったのだが、MRIを撮ってみないとどこまで悪いか判断つかないと医師から言われた。レントゲンを見る限り、かなり悪い、とも。
そこの整形にMRIはないので、別日、指定された大きな病院で撮った。なんとまあ! ♪カンカンドンカン♫ ♬ドンカンカンカン♩ MRI撮影中の音は凄まじい。閉所恐怖症の人は困難な場合もある、と事前情報をキャッチしていたが、とにかく狭い。自律神経失調症持ちのオレなので、入って終わるまで目を閉じていた。
で、撮ったMRIが以下のモノだ。素人が見ても???だが、あまり目にしないと思うので貼っておく。
MRI影像?写真
医師の診断。手術の必要まではないけれど、悪い!
そして、この整形で、牽引、電気、レーザー治療が始まった。
2週間ほど通ったが、良くなる兆候がない。更には、通うのも大変になりつつあった。
そんな最中、親しい介護職人から、脊椎矯正院というのがあると知らされた。1時間の治療で4000円。しかし、腰痛から解放された人が多いとも聞かされると出向くしかなかった。
ビンゴ! だった。週2回を3回ほど繰り返したら、30分は平気で歩けるほどに回復した。先生からは、あとはオレの努力と、できれば月1回ほどのの通院がベストと薦められた。
脊椎矯正院で
今、鈍い痛みはあるものの、日常生活に支障はない。もちろん、1時間継続して歩くことはできない。
つまり、騙し騙しの日々を送っているのだ。いつ? ドカーンと来るかは、神のみぞ知るところだろうか?
母が寝たきりと呼ばれる状態になって以降、認知症混乱期の頃に経験した気が狂いそうになるような介護からは解放された。しかし、ベッド上でのオムツ交換に体位変換。腰に、とーーても負担がかかるようになった。
担当ケアマネジャーに送られて
10月30日午前から11月2日午後にかけて、母をショートステイにお願いした。30日は土曜日だったのでショートステイ先からのお迎えがない。基本的に、土・日曜、そして祝日は送迎サービスがないのだ。これは痛い!
というのも、オレは車の免許というものを取得していない。だから、ショートステイまでの道のりを誰かの運転に頼らなければならない。もちろん、オレは母に同行する。
タクシーなどは論外。車で25分ほどの距離なので片道3000円近くまで跳ねてしまう。介護タクシーは視野の範疇だけれど、オレを自宅まで送り返してはくれない。それと、手続きが面倒。
頼るは友人・知人。この日は、母担当のケアマネジャーが来てくれた。
「けあサポに、ケアマネに送ってもらった、と書いても大丈夫かよ?」
それなりに、オレも気配りをする。
「えー? 『担当ケアマネジャーがショートステイに送ってはいけない』なんてこと、見たことも聞いたこともないですよ」
正直なところ、担当ケアマネジャーとの関係は微妙?
あやしい関係というのではない。
つまり、オレにとっては友人であり、母には担当ケアマネジャーでもあるということ。もっとも、オレは母のキーパーソンだから、担当ケアマネジャーはオレの詳細もできるだけ把握しなければならない立場にはある。
母担当のケアマネジャー。オレから名字でNさんと呼ばれたり、名前でSちゃんと呼ばれたり。
「Sちゃん、今朝もキレイよ」
「Nさん、和ちゃんのエアマット交換の件だけど?」
なんだか、けあサポに相応しくない? 奇妙な文面になってしまったけれど、ケアマネジャーと良好な関係が築けると、スコブル融通の利く介護ができるということを記したかった、ということであります。
さて、ショートステイへ“いざ出陣”となると、いろいろと準備というものが必要になる。
母は胃ろうなので、経管栄養剤であるエンシュアを三泊四日分の十缶。一缶は250CC。
着替えもこの時期は多くなる。秋・冬モノ混合でバッグに詰め込む。バスタオル他も。写真のように天こ盛り。
必要・お願い事項記入の一枚の紙。
今回は、
「胃ろう部位周囲へ出てくる浸出液に気配りして欲しい。その浸出液を吸収させるガーゼ交換を頻繁にして欲しい。私とデイサービス職員たちとで、目立ちはじめた不良肉芽をここまで小さくしましたから」
お世話になる身としては記入しずらいのだが、書かねばならない。
ところで、
「がんばらない介護生活を考える会」にアクセスすると、TOP画面にドカーンと。
『介護生活に役立つ がんばらない介護生活“5原則”』
1 1人で介護を背負い込まない。
2 積極的にサービスを利用する。
3 現状を認識し、需要する。
4 介護される側の気持ちを理解し、尊重する。
5 出来るだけ楽な介護のやり方を考える。
あれっ? オレは 頑張らない介護なんてありえない と放言し続けてきたのだけれど、もしかしてオレは、がんばらない介護の実践者?
と、自分自身の介護哲学を揺さぶられる今、現在進行形→