作話
認知症の家族を介護するとき、作話に対してどう対応するか? かなり厄介で根気のいる作業となる。
母の場合、あまりに現実味のない話を一生懸命にオレに訴えたことで、その作話を仕切り線として認知症の確定診断を決意したという経緯があった。
母は、自身が体験したという恐怖を以下のように話した。身振り手振りありの、表情もそれはそれは恐々と。なので、ここは純粋岡山弁の方がシックリするのだけれど、そこは皆さんに分かりやすいように!
「今日の昼過ぎ、私はお風呂の掃除をしてたんよ。そしたらなあ、突然じゃったなあ! 目の前に、黒ずくめの人が現れて、私の頭をポカーンポカーンと3回も4回も叩いて玄関から出ていってしもうたが。
顔? そんなの分かるもんか。オトコなんかオンナなんかも。黒の帽子。黒のメガネ。それで黒のマスクなんよ。服もズボンも靴も、なんもかんもが黒ずくめなんじゃから。ここに大きなコブができとるじゃろう?」
母は、たんこぶで腫れているという頭の一カ所を指す。どれどれ? 母の髪の毛を割って、そのたんこぶを探すもない。どこにもない。しかし母は、
「そこよ。そこじゃがー!」
と激しく訴えるのだけれど、影も形もない。あるわけない、と確信しつつ探す振り。やれやれ。
この作話。実は、母から聞く前に母の友人から電話で知らされていた。電話口の向こうの様子? その友人の口ぶりから想像できた。
“あなたも大変ね! これから”
可愛そう とか 気の毒 とか。いろんな視線と立ち向かわないといけないことも、認知症の人をを抱える家族のストレスだ。
さて、実のところ、母の作話に気づかず8年間。という事実が判明した。
今年の5月、業者に依頼して不要なタンス等の大型のゴミを捨てた。とにかく、その部屋にあるモノ全てを捨てて欲しい、と。
作業は3時間ほどで終わったのだけれど、作業中、職人さんから、
「野田さん、これはいくらなんでも捨てるのはもったいないでしょう?」
職人さんが手にしてるのは、観音像。母の言葉を借りれば、
「お父ちゃん(オレの父)が三十万円で買ったんよ」
という代物だった。
オレは、アッ! と唸った。この観音像、家にあってはいけないモノなのだ。母が認知症の確定診断を受ける前のことなのだが、母はある宗教関係者と親しくしていた。女性だが、我が家にも出入りしていた。
その女性から、観音像を捨てるように言われたと母からオレは説明を受けた。まあ、こんな感じだった。
「Aさんがなあ、『あの観音像があったら不幸に付きまとわれるよ』と言うんよ。じゃから、川へ捨ててきたんよ」
驚いた。三十万円は大袈裟でも、母が大切にしていたモノだから。で、何度問うても同じ回答をする。なので、オレも本気にしてしまった。そして、今振り返れば、とんでもない行動に出てしまった。
Aさんが信仰している場に出向き、母から聞かされた内容を問いただしキッチリと言い切った。
「もう来るな」
Aさん、なんらの弁明もせずに頭を下げていた。
オレは恥ずかしくて仕方ない。8年を超えた以前のあやまち。謝罪に、いつ出向こうか? と思いつつ、今日に至っている。
コメント
野田さん
面白い作話ですよね。
だけど、
いろんな視線と接し戦わないといけない。
戦える野田さんがスゴイなあ。
こういう視線、なんとかならぬか? です。
熊夫さま
いつもコメントありがとうございます。
視線
まなざし
なら素晴らしいのですが、
こういう歪な視線は激しいストレスになります。
戦う というより
歯を食いしばって耐えた ですね。
なんとかなりませんか?
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