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野田明宏の「俺流オトコの介護」 2010年10月

インフルエンザ予防接種

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 10月22日。母とオレはインフルエンザ予防接種を受けた。母がアルツハイマーを宣告されて毎年だから、今回で9回目となる。今回からは、新型も混合されている。
 インフルエンザ予防接種。学校から強制されていた小学生の頃。痛い! の象徴であった。毎年、1年生から6年生になるまで、先に接種した友達に
 「痛かったか?」
 を聞くのが恒例になっていた。聞かれた友達は接種後なので、余裕の微笑みを浮かべながらも、
 「どえらい痛いで! 泣くなよ」
 同情顔ではあるものの、心の中では\(^O^)/。オレも聞かれたら同じであったから。皆、ガキながら罪なヤツ等だった。
 ところが、今回も含め9回、接種したときに痛みがほとんどない。二の腕あたりの柔らかい部位に接種すれば痛くないのだ、そうだ。
 母の場合、数年前になるが、お腹周りに脂肪が多いので、ヘソのそばあたりにブスリと。往診医ではなく、入院最中に別医師が。
 アッ! という間であったので質問する余裕もなかったのだが、拘縮著しい上腕にするより全然OKということであった。

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 しかし、母を介護するようになってから、いろんなことが判明してきた。母の基礎体温は37度前後。アルツハイマーを宣告され、デイサービスへ通うようになり、毎朝の体温を計測するようになってから分かった。まあ、それ以前は、母の体温など知る必要もなかったから。なので、37度3分までが母の平熱とオレは勝手に決め込んでいる。
 一方のオレ。36度を超えることはあまりない。今回も接種前計測では35度8分。低体温、というヤツかもしれない? 
 母は37度2分だった。これも、デイサービスから帰宅時は37度6分。間違いなく“こもり熱”。母は、腕が胸にピッタリするほどの拘縮だから猛烈にこもる。脇に隙間をつくり空気を入れる。すると、かなり下がる。
 しかし、母もオレも、アルツハイマーを宣告された後、風邪とインフルエンザは発症していない。
 もっとも、喉が少し痛いと思えば直ぐに葛根湯液をオレは飲む。実は、22日の朝もそうだった。母をデイサービスへ送り出し、直ぐにドラッグストアに向かった。購入しながらレジ係を前に、液と粉末をダブルで飲む。風邪予防にはかなり資金を費やした。
 母については、介護者であるオレやデイサービス職員の気配りしかない。クシャミをすれば毛布を1枚かけ、寝汗をかけばシャツをその度に替える。小さいことをコツコツと。
 そして、接種が終われば冬到来の準備に忙しくなる。今も南向き窓辺には、母の冬モノ衣類が洗濯を終えイッパイぶら下がっている。

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生きてるって感じ

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 火曜、金曜&日曜。母はデイサービスがお休みなので我が家で1日を過ごす。オレの本心はと言えば、できることなら火曜と金曜もデイサービスへ出陣して欲しい。
 日曜は、デイサービスそのものがお休みだから、週に6日デイサービスを活用してもらうとオレ自身のライフワークも幅が拡がる。つまり、嫌な言い方だけれど、母に拘束される時間が減るわけだ。
 しかし、母が通うデイサービス。火曜・金曜に空きが出ない。もっとも、ショートステイに行かれた、入院された等、突然に空きが生まれ2週間丸々の出陣となったこともある。
 やれやれ。致し方ないことを愚痴ってしまった。
 母と1日を過ごすとき、オレは母にカメラを向けてパチリンコとやる。撮る構図で一番良いのが午前中。母を椅子に座らせているときだ。この椅子は入浴椅子で、座ったお尻の部分にほど良い大きさの穴が空いている。入浴中は、介護者がここから下を洗える。

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 もう一つの活用方。排便用でもある。オレもこの穴から母の肛門に指を入れ、数え切れないほど摘便をしたものだ。摘便については後々改めて記すが、摘便を経験するようになると、在宅介護者としての誇りのようなモノが芽生え始める。他者はどうか承知しないけれど、オレは在宅介護者として、
 「嗚呼! ここまで来たなあ!」
 と実感したものだ。
 TOPにある母の大欠伸ドアップ写真。母から“生きてるって感じ”を強烈に浴びる。
 寝たきりだって、ガオー だ。
 先週に撮ったモノだが、これも椅子に座っているときにだった。
 さて、冒頭辺りで、オレのライフワークと記した。今、環境新聞社発行の『月刊ケアマネジメント』に“僕らはみんな生きている”というタイトルで連載している。この画面左にあるオレのプロフィール最後にも記載してもらっているのだが、見開き2ページでドカーンと人物紹介する連載。
 例外はあるけれど、紹介する人たちは認知症等を患いながらも、シッカリ生きてるぞ、という高齢者方々。
 とはいえ、この企画を進めるということは、ご本人の承諾(意図を理解してもらえないことがほとんど)はもちろん、本人ご家族にも了解してもらわなければならない。当然、施設入所されてる場合であれば、施設側の協力も不可欠。とにかく、皆さんの好意と協力なくしては連載など不可能な企画。
 ただ、オレは今日に至るまで、多くの施設や在宅介護の現場に立ち・寄り添い、記事にはできない方もあったけれど、ルールだけは厳守してきた。ルール? 約束したことは守る。
 こんな過去の経緯もあって、協力してくれる人たちは極めて多い。でも、
 「そうそう。あそこの施設に、素敵な笑顔をするお婆ちゃんがいたなあ!」
 早速に施設に電話をすると、
 「もうADLが極端に落ちて、野田さんが期待されるような写真は無理ですよ」
 別日。
 「ウンコが付着した手で、オレのズボンを触っていたお婆ちゃんがいたな?」
 グループホームへ電話を入れる。
 「Mさん、経済的な折り合いから老人保健施設へ移られました」
 お年寄りを撮るということは、なかなかじゃないことを痛感。
 でも、だけど、
 ヤッパ、
 “生きてるって感じ”を表現したくて、
 アチコチに電話するオレがいる。
 以下に貼り付けてるのは、連載の第1回。

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興味を持たれた方は是非、雑誌を手にとってください。
『月刊ケアマネジメント』環境新聞社より毎月発行



作話

 認知症の家族を介護するとき、作話に対してどう対応するか? かなり厄介で根気のいる作業となる。
 母の場合、あまりに現実味のない話を一生懸命にオレに訴えたことで、その作話を仕切り線として認知症の確定診断を決意したという経緯があった。
 母は、自身が体験したという恐怖を以下のように話した。身振り手振りありの、表情もそれはそれは恐々と。なので、ここは純粋岡山弁の方がシックリするのだけれど、そこは皆さんに分かりやすいように!
 「今日の昼過ぎ、私はお風呂の掃除をしてたんよ。そしたらなあ、突然じゃったなあ! 目の前に、黒ずくめの人が現れて、私の頭をポカーンポカーンと3回も4回も叩いて玄関から出ていってしもうたが。
 顔? そんなの分かるもんか。オトコなんかオンナなんかも。黒の帽子。黒のメガネ。それで黒のマスクなんよ。服もズボンも靴も、なんもかんもが黒ずくめなんじゃから。ここに大きなコブができとるじゃろう?」
 母は、たんこぶで腫れているという頭の一カ所を指す。どれどれ? 母の髪の毛を割って、そのたんこぶを探すもない。どこにもない。しかし母は、
 「そこよ。そこじゃがー!」
 と激しく訴えるのだけれど、影も形もない。あるわけない、と確信しつつ探す振り。やれやれ。
 この作話。実は、母から聞く前に母の友人から電話で知らされていた。電話口の向こうの様子? その友人の口ぶりから想像できた。
 “あなたも大変ね! これから”
 可愛そう とか 気の毒 とか。いろんな視線と立ち向かわないといけないことも、認知症の人をを抱える家族のストレスだ。
 さて、実のところ、母の作話に気づかず8年間。という事実が判明した。
 今年の5月、業者に依頼して不要なタンス等の大型のゴミを捨てた。とにかく、その部屋にあるモノ全てを捨てて欲しい、と。
 作業は3時間ほどで終わったのだけれど、作業中、職人さんから、
 「野田さん、これはいくらなんでも捨てるのはもったいないでしょう?」
 職人さんが手にしてるのは、観音像。母の言葉を借りれば、
 「お父ちゃん(オレの父)が三十万円で買ったんよ」
 という代物だった。
 オレは、アッ! と唸った。この観音像、家にあってはいけないモノなのだ。母が認知症の確定診断を受ける前のことなのだが、母はある宗教関係者と親しくしていた。女性だが、我が家にも出入りしていた。
 その女性から、観音像を捨てるように言われたと母からオレは説明を受けた。まあ、こんな感じだった。
 「Aさんがなあ、『あの観音像があったら不幸に付きまとわれるよ』と言うんよ。じゃから、川へ捨ててきたんよ」
 驚いた。三十万円は大袈裟でも、母が大切にしていたモノだから。で、何度問うても同じ回答をする。なので、オレも本気にしてしまった。そして、今振り返れば、とんでもない行動に出てしまった。
 Aさんが信仰している場に出向き、母から聞かされた内容を問いただしキッチリと言い切った。
 「もう来るな」
 Aさん、なんらの弁明もせずに頭を下げていた。
 オレは恥ずかしくて仕方ない。8年を超えた以前のあやまち。謝罪に、いつ出向こうか? と思いつつ、今日に至っている。 

川底にあるはずの観音像
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玉野総合医療専門学校

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 10月13日。
 岡山県玉野市にある、玉野総合医療専門学校・理学療法学科4年生に講義をしてきた。年に1度。今年で3回目となる。
 講義と言っても、理学療法士を目指す若者へ、その専門的見地から話せる器量も経験もオレには全くない。ましてや、彼・彼女たち、この時期は就活に力を傾注しなければならない大事な季節だ。それ以前に国家試験にも臨まなければならず、それはそれは大変なのだ。
 だからといって、国家試験に役立つ講義がオレにできるわけではない。オレに講義を依頼してくれてる昔からの知人もそこは当然、理解も納得もしている。
 では、何を話すのか? 10分の休息を挟んで2時限。約3時間も!
 結局のところ、オレの経験しかない。父を看取り、現在進行形であるアルツハイマーの母の介護。この経験を核に、オレなりの人生哲学を話す。
 正直、若者たちの心を捉える・捉えた自信などない。だけど、理学療法学科では学べないコミュニケーションツールはキッチリと伝達できたと確信している。
 コミュニケーションツール?
 例えば、軍歌の一つも知っておくと、今のお年寄りなら話が弾む切っ掛けになるかもしれない? という辺りのこと。
 軍歌に「広瀬中佐」という有名な曲がある。これは、唱歌としても歌われていたので、昭和10年前後生まれまでのお年寄りなら必ず記憶にあるはずで、施設でオレが認知症の人にハミングすると口ずさみ始めるということをオレは何度も経験してきた。
 母もそうだった。というか、母に広瀬中佐の曲を教えてもらったのだ。アルツハイマー発症後に。「兵隊さん」という曲もよく歌っていたので、以下に貼り付けておく。

「兵隊さん」(1932<昭和7>年文部省唱歌)

鉄砲かついだ
兵隊さん、
足並そろへて
歩いてる。
とっとことっとこ
歩いてる。
兵隊さんは
きれいだな。
兵隊さんは
大すきだ。


お馬に乗つた
兵隊さん、
砂を蹴立てて
かけて来る。
ぱっぱかぱっぱか
かけて来る。
兵隊さんは
勇ましい。
兵隊さんは
大すきだ。

ハッキリ言って、オレは彼・彼女たちの即戦力にはならない。ただ、いつか? オレの話したことが、脳裏の片隅から蘇ってくることもあるに違いないと思いながら、オレはオレなりに自信を持って講義した。

PS
ここに写っている皆さん。
これからのご活躍を心より祈っています。
それと、オレの講義のレポート提出もあると聞きました。
恐縮です。




秋の空

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 稲穂が頭を垂れはじめ、ススキが顔をだし、青く高い空は突き抜けるよう。母が歩ける頃、正に秋ど真ん中の出来事だった。
 オレと母はいつものようにcoopに買い物へ出た。もちろん歩いてだ。写真の道を二人で一緒に。
 買い物を済ませ、帰路へ。今は閉店してしまったのだが、coopを出て3分も歩くとコンビニがあった。普段は全く無視して通り過ぎてしまう。ただ、どういう事情で立ち寄ったかは記憶にないのだが、コンビニへ入った。
 コンビニはコンビニで、欲しくなるモノもある。何品か購入してレジ待ちをした。オレの後方に母。支払いの順番が来た。オレはレジ前に立った。するとレジ係のお姉さんが、オレに問うた。彼女の視線はオレのかなり後方。周囲では薄ら笑いが聞こえる。
 「お客さまとご一緒の方ですか?」
 オレはレジ係の視線の方を伺う。すると、母がそこにいた。裸足だった。棚にある品を手にとって見ていた。
 オレは、母が直ぐ後ろにいるものだろうと思い込んでいた。オレの足先には、母の靴と靴下があった。
 オレは猛烈に恥ずかしくなった。レジで支払いを済ませ、母に靴を履かせることもしないで、母の手を取ってそのまま逃げるようにコンビニから飛び出た。
 靴下を履かせ、靴も履いた。コンビニから2分もしないうちにこの道に出る。空を見上げた。この写真、そのままだった。見上げてる間に、なんだか悔しくなり目頭が熱くなった。
 隣を歩いているいる母を見た。笑っていた。ご機嫌の様子だ。
 その母を見て、なんだか余計に悔しさがこみ上げてきた。目頭は熱いだけを超え、涙が溢れてきた。上を向いた。
 写真のままであろう空が、涙で曇った。
 さて、写真は10月7日に撮った。今も、母をデイサービスへ送り出してからcoopへ向かう。往復路、この道を通る。空を見上げたら、あの日の悔しさを思い出していた。
 そして、このことを書こう! 帰宅し、カメラを下げて再び自転車に乗った。風を切る。
 その風は、秋の香りだった。切なさをチョッピリ漂わせた。



下川琥太郎君

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 下川琥太郎君。7月24日生まれなので、生を授かってまだ2ヶ月と少し。
 母がアルツハイマーを発症し、それをオレが公にして以降いろんな人たちが我が家を出入りしたけれど、琥太郎君が最年少記録。
 琥太郎と書いて こたろう と読む。
 琥太郎君のお父さんは、岡山県南で3つのデイサービスを運営している。もう30歳になったはずだけれど、若い!
 若いけれど、社長である。奥さんをオレに紹介したとき、
 「野田さん、うちのです」
 と、なんの躊躇いもなく言葉になる。オレは生まれてこの方、一度も使用したことのない台詞。
 そんな下川家族が、陣中見舞いも兼ねて訪ねてくれたわけだけれど、赤ちゃんというのは本当に瞳が澄んでいる。
 誰が撮っても、赤ちゃんは可愛く撮れるので、オレもそこはいろいろとチャレンジ。たぶん? 撮りながらイメージできてはいたのだが、やはりシッカリと写っていた。
 琥太郎君の瞳に、オレの部屋の汚い蛍光灯が。

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 琥太郎君を撮りながら、母がスコブル、孫を望んでいたことを思い出していた。とはいえ、オレはこんな有り様。改めて、母不幸息子を痛感する始末。
 でも、我が家にとっては非日常の束の間でもあった。
 琥太郎君、来てくれてありがとう。

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できないことは押しつけない

 母がアルツハイマー病だと宣告され、進行予防にいろんなチャレンジを試みた。
 まず、小学校1年生向け算数のドリル。このドリルは、宣告されて直ぐに購入してきたので簡単すぎるかな? と想像したりもしながら買い求めたことを記憶している。
 なぜなら、
 59+21=80
 母は、私が口頭で質問する二桁の数字では問題なく回答できていたから。三桁となるとアウトだったが、確定診断時の、簡単な足し算&引き算も出来ていたようにも記憶している。
 ところが、ドリルを開いて驚くべき現実と向かい合うことになった。
   13
  +21
 この形で表記されている場合、母は全く、どうして良いか判断できないでいた。
 13+21は?
 と口頭で問えば 直ぐに34と正しい答えが戻ってくるのに。結局、このドリルでの進行予防は数時間で諦めた。数時間とは3時間ほどだったが、かなり母を叱ってしまった。
 できないことを押しつける、最初の愚弄だった。
 名前 住所 生年月日なども、反復させた。母の場合、生まれが和歌山県で、故郷をとても懐かしむことが多くなったので現住所より生まれた場所を取り込んだ。今はもう、その在所は存在しないのだけれど。
 で、母は以下のように反復した。不思議だが、最初はペーパーに筆記してなくても言えたのだ。もっとも、漢字にすると読めない字も多く、イメージではひらがなの世界だ。
 「わたくしは のだかずこ ともうします。しょうわいちねん じゅうにがつさんじゅうにち にうまれました。うまれたところは わかやまけんひだかぐん ふなつきむら たかつお です」
 ちゃんと言えればオレは拍手。母も、まんざらでもなさそうに喜びを笑顔で表現した。
 母は、和歌山県日高郡舟つき村高津尾という所で生まれた。母の父、つまりオレの祖父だが、発電所の所長をやっていた。大正から昭和初期にかけてだから重責であったらしい。早くに死んでしまったのだけれど、仕事中の感電死だった。
 祖父がそのまま生存していれば、母はそこそこのお金持ちの娘としてどこかに嫁いだはず。
 人生とは、なかなかじゃないです。
 アルツハイマー病の家族を介護していて誰もが遭遇し、なぜ? と疑問に思うことに、頻繁に転び出すことがある。一緒に買い物に出、舗装された道路を歩いているにもかかわらずだ。
 まあ、よくよく確認すると、ほんの数ミリ程度の段差? 出っ張りがあり、そこに躓くのだ。そして、豪快に滑り込む。脚のスネからは、よく血を出した。顔面、血まみれのこともあった。
 そこで、下半身のトレーニングに勤しんだ。スクワット。
 母は楽しそうにやっていたけれど、今、振り返れば効果があったかは大いなる疑問だ。
 下半身を鍛えても、そこに指令を発する脳が萎縮してしまえばどうにもならないのだから。
 過去の失敗から強く思う。今更だが、
 できないことは押しつけない。

アルツハイマーを宣告された数ヶ月後
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引っ越しに向けて

 9月30日。親友のゴミ処理業者に委託して、オレが使用していた部屋の一切合切を処分してもらった。
 この親友、“介護整理”という特殊な仕事もしている。簡単に説明すれば、独居老人が亡くなったとき、全ての後片付けをするというもの。遠距離地に住む家族に代わって仏壇などの供養もする。
 さて、我が家は借家。オレが中学に上がったときから住んでるので40年少々借りてきたことになる。考えてみれば、支払った家賃の額もかなりのものだ。もっともオレは、高校時代から下宿生活だったのでこの借家への思い入れは薄い。
 で、この借家。とうとう危うくなった。オレの推測するところ、震度4の揺れがあれば倒壊すること間違いなし。台風が到来すると、避難すること毎度。ここ2年、台風の直撃を受けてないので凌いでこれたけれど、強い台風がモロに来れば南向きの窓は吹っ飛び、瓦も飛散し、側壁なども剥がれること必至。以前にもあったのだ。
 そこを、なんとか騙し騙しやってきたのだけれど、もう騙し切れない状況になった。大家さんからも、懇願される始末。
 で、軽トラと2トントラック2台のゴミが消え、オレの部屋は見事にスッキリ。本当に全てが消え去った。消え去るようにした。ただ、親友も気が引けたのだろう。オレが甲子園で入場行進している写真だけは、壁に掛けられたまま残っていた。
 岡山東商の一番後方がオレ。
 やれやれだけど、元気を出して、近々に引っ越し。10月は台風シーズン。お近づきにならないように?
 とはいえ、なんだか黄昏れているここ数日。形ある、ほぼ全ての青春をポイしてしまったから。
 引っ越しについては、追々記していこうと思う。
 なにせ、和ちゃんと一緒に! だから。

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ガラクタの中から愛が!

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 母が段々に歩けなくなり、万年床周辺が母の活動の場となった頃。母はガラクタ探しに勤しむことが多くなった。勤しんでいるのかは不明だけれど、一所懸命? 夢中だったことは理解できた。もっとも、引き出しに入っているモノを万年床に錯乱させるだけ。結局は、オレが後片付に勤しむことが日課になった。
 とはいえ、日々、こんな作業が日課ではオレも頭に来る。母はまだ失語はしていなかったので、言葉は過激に。
 「和ちゃん、ええかげんにせえよ?」
 「あのなあ、わたしゃ大事なモノを探しょんじゃ」
 「後片付け、できんくせに偉そうに言うな」
 「うるさいなあ」
 本当のところはもっと凄まじい。ただ、岡山弁での口論なので、口語をそのまま記すと岡山以外の方々には意味不明。なので、雰囲気だけ。
 で、うるさい、とまで言われては幕引きにできない。感情は、理性などスコーンと駆逐してしまう。
 「ヨッシャ! よーーう分かった。このガラクタ、ワシがこれから全部捨てちゃる」
 オレは、母を力尽くでどかした。軽い。母が万年床へ転がった。オレは本気でガラクタを大型ビニール袋へ次から次へ放り込んだ。
 母が叫ぶ。
 「やめてー」
 「うるせえ」
 母が泣き始め、新たに叫んだ。
 「死んだ方がましじゃー」
 しかし、オレも感情が高ぶり、勢いが止まらない。いや、勢いは増すばかりだった。
 そうこうしてると、少し大型の饅頭箱が。シッカリとビニール紐で縛られている。母だ。母は、梱包作業も仕事で請け負っていたから上手い。興味が湧いた。
 あまりにシッカリ梱包してるのでハサミで紐を切った。蓋を開けた。
 すると、中には、オレがインタビューを受けた新聞記事やらオレの初めての著書。まだ書くことのプロでない頃、オレは盛んに新聞・雑誌に投稿していた時期があり、そこで掲載された小さな記事の切り抜きまでもがあった。
 つまり、その箱の中は、オレの過去ではち切れんばかりだったのだ。
 その箱を母に差し出し
 「大事なモノはこれか?」
 「どこにあったん?」
 母の笑顔が炸裂した。愛おしそうに、一つひとつを確認している。
 「和ちゃん」
 母を後ろから抱きしめた。涙もチョッピリ流れた。そして、母の好きなようにしてもらうことにした。
 翌日、母のガラクタ探しが始まった。母の大事なモノであるはずの饅頭箱は全く無視されている。饅頭箱の箱を空け、中を見せながら母に問うた?
 「和ちゃん。大事なモノはこれじゃろ?」
 「違うよ。そんなんじゃないよ」
 一瞬の間。
 そりゃそうだ。探しモノを明確に脳がキャッチできているのなら、アルツハイマーなどではないはず。
 オレは完璧な勘違い息子だった。でも、まあ良い。母がオレを愛していてくれたことに間違いない証明を発見できたのだから。
 突然、可笑しくなった。笑った。大声で、ひとり笑い続けた。

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プロフィール
野田明宏
(のだ あきひろ)
フリーライター。1956年生まれ。約50カ国をバックパックを背負って旅する。その後、グアテマラを中心に中央アメリカに約2年間滞在。内戦下のエルサルバドルでは、政府軍のパトロールにも同行取材等etc。2002年、母親の介護をきっかけに、老人介護を中心に執筆活動を開始。2010年現在、83歳になる母と二人暮らしで在宅介護を続ける。主な著書は『アルツハイマーの母をよろしく』『アルツハイマー在宅介護最前線』(以上、ミネルヴァ書房)など多数。『月刊ケアマネジメント』(環境新聞社)にて、「僕らはみんな生きている」連載中。
http://www.noda-akihiro.net/
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