『まなざしかいご』
藤川幸之助氏が本年三月までけあサポに連載していた“まなざし介護”。その連載が単行本『まなざしかいご』として、よりパワーアップして戻ってきた。
温かさ、切なさ。哀しみも歓びも!
介護という大きな枠組みの中にいる誰もが、この本のどこかで必ず共感できる場面と遭遇できる。そんな貴重な一冊である。
が、もしかすると、これから介護と向き合わなければならない人たち。その方々が介護登竜門として一読する、という手法も二重丸だろう。これから先、介護の現実にどう対応すれば良いのか? そこから湧き出る不安や焦り。読めばたちまち解消などありえない。が、背負っている苦悩の共通点は多い。そして、その先にある歓び。歓びに至るまでには遠い道のりだけれど、いつか必ず見えてくる。
ヨッシャ! やってみよう?
と、前向き思考と出会えるかも? の一冊でもある。
とはいえ、藤川氏と同様な思考であることもない。この本から、なにかヒントが見つかればOKなのだ。介護。あまりにも不透明で奥深い。深層までたどり着いた人はいるのだろうか?
さて、大事なことが一点。本書は
“まなざしかいご”
“介護”から“かいご”へ。ひらがな。なんだか、ほんわりと包み込まれるようではないか? 父を我が家で看取り、母の在宅介護も九年目に突入した私だけれど、介護=辛い。のイメージからなかなか脱却できないできた。
しかし、かいご。この文字は温かく優しい。おかあちゃんのようだ。
順序が前後してしまったが、少し詳細に!
装丁。シンプルそのもの。淡いグリーン色? 手に取ると、肌触りが良く優しい。
「はじめに」をまず読む。ちょっと哀しい。末文は、
老いていく母と
長いこと一緒に生きてきた
ただそれだけ
のっけから、期待に反してカウンターパンチ。
「藤川さんよう、そりゃあねえだろう。もっともっと、楽しいこともイッパイあっただろ?」
思わず、文字に向かって怒りモードで問い掛けた。
読了。
やはり、ホンマもんだった。共感できる箇所には付箋を打った。ありすぎて、付箋が意味を為さなくなっていた。写真がスコブル良い。藤川氏、カメラもプロなの?
藤川氏と私の相違点といえば、藤川氏はお母様を施設に託し、私は在宅で母を看てる。大きな意味での違いはここだけだ。
藤川氏のお母様も胃ろう。私の母も胃ろう。二人ともに失語している。
藤川氏は問い掛ける。
「母に言葉がないので、心までないと思い違いをしてしまうときがある。それは、言葉を通して母を『分かろう』としているからだ。言葉がないからこそ、純真無垢な心が見える。それが、存在を『感じる』ということだと思う」
更に、
「感じあっているとき、与えることは言葉ではないものだが、受け取るときもまた言葉ではないものなのだ。そして、『人はそこに存在するだけで大きな意味がある』ということをも母は教えてくれているのだ」
今、延命ということが世間で問われ始めた。口からモノが食べられなくなったら、そのまま食べられないまま自然に逝かせてあげなさい。それが平穏死と。
だけど、私は母と寝食をともにし八年間。
『人はそこに存在するだけで大きな意味がある』
ここだけ。ここだけで、“まなざしかいご”と出会えて心から良かったと。ありがとう でイッパイだ。
P158の 夕日を見ると
この詩には救われた。まず、この詩から藤川ワールドへ突入するのも一考かと?
“まなざし”
正しく、ただの視線ではない。
コメント
私の大好きなこの写真の方は、口から食べられなくなり、家族は鼻腔栄養を決断されました。なので看護師24時間体制でないうちのグループホームは、やむをえず今日が退去日になりました。
この方に私たちはどれほど支えられたでしょうか。
私の親友の母は、口から食べられなくなり点滴の針も通らなくなりました。悩んで悩んで、今晩カットダウンしました。
会いに伺い、手を握っていますと、私の顔を捜し、じっと見つめ一瞬笑顔されました。
“まなざし”
ただの視線ではない。
無駄なものも なにひとつありませんよね。
おけいさん へ
おけいさんの まなざし は
優しくて真摯でファイトがあって、
いつも尊敬しています。
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