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野田明宏の「俺流オトコの介護」

衝撃的介護デビュー

 今回は、オレの介護デビューについて記す。母の介護ではなく、亡き父の介護でデビューしたのだが、それは極めて衝撃的であった。
 父が逝ったのは十七年ほど前だから、オレは三十五歳から三十七歳までの三年間、母と一緒に共同作業のような形で父を介護した。看取りは、看護師の従姉妹と母、そしてオレの三人だった。今、この原稿を書いてる部屋で。
 身体中に褥瘡を創ってしまったけれど、最後は、文字通りに“スーー”と旅だってくれたことが介護者である我々には慰みになった。
 さて、介護デビューについて詳細を記したいのだが、あまりに長編になってしまうのでかなり省略することをお許し願いたい。
 父がO病院へ前立腺肥大の治療で入院した。数日後、経過良好で退院することに。ところが、この際だからアチコチ検査して欲しいと父が改めて入院希望した。ここまでは母からの又聞き。
 それから三日ほどが過ぎた夕刻、母から電話が入った。
 「お父ちゃん、肺炎になったみたい。今夜は付き添うから、明日、お父ちゃんのシャツとか病院へ持ってきて」
 翌日、オレは病院へ。六人部屋。片側三人真ん中のベッドで高熱をだして苦しんでいた。結論から言えば、MRSA(メチシリン耐性黄色ブドウ球菌)というヤツに院内感染してしまったのだ。
 医師に呼ばれ、ほぼ九分九厘、助かる見込みはないと説明も受けた。とはいえ、父は生き延びた。母はといえば、リカバリールームと呼ばれる四人部屋で、ほぼ一週間を寝ずの看病だった。オレは、ときどき病院を覗くも、本当に覗くだけだった。
 唯一、行ったことは、父は死を宣告された状況だったので葬儀屋さんに事情だけは説明しておいた。もちろん、死に近い領域から生の世界へ帰還したので断りの挨拶にも出掛けたのだけれど。
 で、だからといって直ぐに退院できるわけではない。院内感染という事情もあり、病院側も配慮してくれ二人部屋を無料で使用させてくれることになった。付き添う母を気遣ってくれてのことだ。一方のベッドで休息しながら介護してください、ということだ。
 しかし、母は疲れ切っていた。あまりに酷いので、オレは心にもないことを口走ってしまった。もちろん、不祥息子からこんな言葉を聞けば母も少しは元気がでるかな? という、オレなりのオレ流気配りだった。実践する気など全くなかったのだから。
 「よう頑張ったなあ! 今夜は家に帰ってゆっくり休め。オヤジはワシが看るから」
 母が頷いた。そして、紙オムツのある場所等をオレに確認させ、母は背中を向けて帰路へと。アッという間の出来事で、オレにはその流れに逆らう術がなかった。
ただ、母は、
 「お父ちゃんは点滴ばかりで過ごしてきたからウンコの心配はしなくてええよ。オチンチンに管が入ってるからオシッコも大丈夫。あんたは、そこのベッドで寝るだけじゃ」
 間違いなく、そう言い残して帰って行ったのだった。
 夏だった。しかし、省エネで午後八時にはクーラーがオフになり、部屋には熱が籠もり始めた午後九時過ぎ。
 オレは、ベッド脇にある小さい蛍光灯で読書していた。どこからか? ピピプピーみたいな音が聞こえた。無視。
 ところが、一分もしない間にビビビブビバービャーの激しい音。音色を正しくは表現できない。
 部屋の蛍光灯を点けた。父に目を向けた。悲惨。無残。
 その頃のオレは、介護はオンナのやるべきこと、というか、介護などとは全く無縁。だから、オレには想像外の世界がそこには展開されていた。父の背中から下半身先までが下痢便で包まれていたのだ。水便と表現した方が正しいのかもしれない。
 オレと父とは折り合いが悪かった。オレが子供の頃は、鉄拳が頻繁に飛んできた。そば屋に二人で入り、そば汁をガタンとこぼしたときなどは、その場でキョーツケーをさせられた。そして、説教されながらのビンタ。ギャラリーも多くいた。忘れたくても忘れられない。そんな事が茶飯事だった。母が泣き泣き止めるのだが、矛先は母へ。ビンタされる母を見て、オレは更に涙が溢れた。
 そんな経緯もあり、オレは激高してしまった。ただ、この始末はオレがやらなければならないと思い、看護師を呼ぶことは思考の外だった。
 父はオチンチンに管。更には、左腕に点滴。オムツ処理など想像したこともないオレがいて、修羅場は始まった。それでも、三十分ほどで、シーツ替えまでもやってのけたのだが、最中、とにかく父との過去が蘇るのだ。
 「なんじゃこれは? クソだらけけじゃねえか。迷惑かけたらどうなるんならオオッ! キョーツケーしてみい」
 父の身体を右に左にしながらオレは罵声を浴びせる。
 「すまんのお スマンノオ」
 泣く父がオレの眼下にいる。
 「泣いても許さんぞ」
 もう、これ以上は書けない。
 それから数時間後、オレは哀しみの中にうずくまった。
 オヤジはオヤジ。いつまでも憎まれるクソオヤジでいて欲しかった。強いまま。弱いオヤジに罵詈雑言を投げつけたオレ。
 なんだかもう、頭が爆発しそうだった。


母のアルバムから 高等女学校時代
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コメント


一気に読みました。言葉がないです・・・。野田さんの介護デビューは劇的でしたね。家族の歴史が介護にそのままでてしまうことが介護を山あり谷ありの壮絶なものにするということは、聞いてはいましたが、野田さんのこの話で改めてリアルに目の前に広がりました。厳しい父親であっただけその衝撃は大きかったことがよく理解できます。それにこのことも、此までのことも今のこともお母さんが見守ってくれているんですね。


投稿者: my男 | 2010年08月17日 17:15

my男さま

いつもありがとうございます。
8月20日アップ掲載で、父に少し試練を与えようと思案しております。
とはいえ、私も少し反省。
父の良いところも評価しないと、 と。
年月が経てば、気持ちも変化しますね。


投稿者: 野田明宏 | 2010年08月19日 12:43

※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。

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プロフィール
野田明宏
(のだ あきひろ)
フリーライター。1956年生まれ。約50カ国をバックパックを背負って旅する。その後、グアテマラを中心に中央アメリカに約2年間滞在。内戦下のエルサルバドルでは、政府軍のパトロールにも同行取材等etc。2002年、母親の介護をきっかけに、老人介護を中心に執筆活動を開始。2010年現在、83歳になる母と二人暮らしで在宅介護を続ける。主な著書は『アルツハイマーの母をよろしく』『アルツハイマー在宅介護最前線』(以上、ミネルヴァ書房)など多数。『月刊ケアマネジメント』(環境新聞社)にて、「僕らはみんな生きている」連載中。
http://www.noda-akihiro.net/
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