切なさよ こんにちは
アルツハイマーの母を一人息子が在宅介護するとき。これは、切なさと向き合わなければならないことが頻繁となる。
オレたちの年代の母となると、どちら様も凜とした母親が多かったに違いないはず。オレの母もそうだった。高等女学校卒業前に軍需工場に挺身隊でとられ、その工場に向かう最中のチンチン電車中、米軍の機銃掃射にあって田畑を逃げに逃げた話を何度か聞かされた。母を育てた祖母は明治の塊のようなオンナであった。
母は敗戦後からの約四十年を働きとおしてきた。事務職ではあったものの、練炭を担ぐような力仕事もしていた。だから、私は祖母に育てられた。明治の塊は厳しかった。オレは、高熱がでても台風が来ても学校へ向かわされた。なので、小・中学校は皆勤している。
凛とした母。明治の塊までではないにしても、母は母だった。どういう意味か? 母は、夏場でも家の中をスリップ一枚でウロウロするということはなかった。オレの世代だとシュミーズとも言っていたけれど、シュミーズの上に必ず薄いブラウスのようなものは身につけていた。
つまり、オレの前で極力、オンナの部分は見せまいとしていたのだろう。もちろん、オレが中学校以上の年齢になってからのことだと記憶にはあるが、そんな事が記憶に残るくらい母は徹底していた。
ここからが本旨だ。凜としていた母がアルツハイマーになった。当然、母の言動・行動は尋常ではなくなる。セーターをズボンのように履こうとしたりetc。でも、こんなことは認知症混乱期前の序章だから、振り返ればささやかなモノだった。
凛とした母が壊れていく。中でも、下の方の感覚が鈍りはじめた頃、オレにとって最初の大きな壁だったように思う。
母がアルツハイマーと診断されてからは、オレは母といつも一緒だった。買い物にも一緒。散歩を兼ねてだ。診断されてから、そんな年月が経過していない頃だった。買い物に行く途中、母から便臭が漂うのだ。ズボンのお尻の部分を嗅ぐと、ビンゴだった。間違いない。
回れ右して家に戻り、母にズボンを脱いでもらった。実は、もうこの頃にはオレを息子と認知しておらず、世話係であるオレが言うことは素直に頷いてくれていた。
で、やはりパンツには便がかなり付着していた。母は、便を出してペーパーで拭くことをしなくなっていた。そして、最後まで出し切ってもいなかった。
「和ちゃん、一回だけ、ウンコしょうるところ見せてくれる?」
「ええよ」
凛とした母は消去しており、オレは現実を確認することができたのだ。
母のお尻を白湯で洗い流してやり、別のパンツを履かせた。オレは風呂場へと向かった。まずは、便で汚れたパンツを手洗いしてから洗濯機に入れなければならないから。
手洗いをはじめた。突然、切なさがこみ上げてきた。そして、目頭に涙がにじんだ。
“切なさよ こんにちは” の始まりだった。
コメント
何とも言えないのですが、心に刺さりました。
でも、凜とした昔のお母様の姿、今の目を閉じた写真を見ても想像できますよ。
MaCO村長さま
コメントを読んで アレッ? と思ったのですが、
MaCO村長さんは、毎回読んでくれていて、
母が目を瞑っている写真を見続けてこられているのでしたね。
ありがとうございます。
今日、野田さんの記事を今までの分、全部印刷してみんなで読ませていただいています。
野田さんの文章には不思議な力があります。
切ないんだけどあたたかい・・
切実なんだけど、心にしみてくる優しさを感じます。
またコメントします。
さやさま
皆さんで読んでいただいてるのですかー
ありがとうございます。
どこかの 介護施設関係の方でしょうね?
確かに、介護家族に読んでいただくのはもちろん、
介護を生業としている方々に読んでいただく方がベターかもしれませんね。
介護職の方が、いざ自分の父母なり相方を看ることになったとき戸惑いを感じることはアチコチの取材で耳にしています。
それと、在宅介護者心理をご理解していただければ幸いです。
オレ流ではありますが、他介護者と共通したところは多いですから。
今後ともヨロシクお願いします。
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