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野田明宏の「俺流オトコの介護」 2010年07月

なぜ オトコは介護から逃げるのか?

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 今、介護者の3割前後が男性という時代になったらしい。統計ではそうなのかもしれないけれど、オレにはあまりピンとこない。講演先(時々しております)で、聞きに来てくれてる男性が以前より増加してることは実感してるものの、3割という数字に現実味が湧かない。
 まあ、3割という数字は棚に置いといて、介護者主力軍である女性たちはオレにこんな言葉を頻繁に投げかける。
 「オトコは介護から逃げるのよ。その点、野田さんはエライ!」
 エライ! と誉められると嬉しいのだけれど、反面、介護から逃げるオトコはオレをどう評価してるのか? となると少々恐い面もある。裏切り者? 異端者? やれやれだ。
 で、ここからが今回の本旨。ならば、なぜオトコは介護から逃げるのか?
 オトコからの場合、両親か妻を介護することになる。希に、祖父母というケースもある。
 一般的な時系列で記すが、オトコよりオンナの方が寿命は長い。妻が夫を看取る。妻は一人になり、妻の介護が必要になったとき、その妻の子供たちが介護者となる。 
 当然、子供たちは結婚しており、長男の嫁という立場の女性が介護を一手に引き受ける・引き受けざるを得ない、という状況が今も地方では圧倒的だろう。付け加えるが、長男は介護に口を出しても手は出さない。改めて記すが、一般的ケースだ。
 そして、ここからがタブーに挑戦なのであります。
 オレの場合、息子が母を介護するというケース。“息子が母を”などと記してるから曖昧だと想像するのだけれど、お母ちゃんを介護しているのだ。
 お母ちゃん。お母さん。ただのオンナではないのだ。
 介護するということ。これは、お母ちゃんの全てを見なければならないということ。つまり、お母ちゃんの性器までも見て、触れなければならない。
 息子であるオトコは、これに恐怖する。たじろぐ。お母ちゃんはマドンナなのだから。受胎告知のマリア様に通じるような。もちろん、そうは言っても思春期の頃、息子と母には距離ができる。反抗期。母に向かって平気で“ブス”などと呼称するが、母であるから特別なのだ。
 夫が妻を介護する場合。この恐怖は全くない。そこは親しい場所であるのだから。
 では、娘が父、お父ちゃんを介護する場合はどうなんだろう? オレもアチコチ聞いてきた。
 「父のオチンチンですか? 別にどうってこともなかったですよ」
 という声が大勢だった。
 今回は、なぜオトコが介護から逃げるのか? をオレなりの視点でオレ流に考察したのだが、的から大きく逸脱してるとは思っていない。だけど、オレを応援してくれる女性介護軍団からもこんな声が聞こえてきそうだ。
「そうなのよ。ヤッパ、オトコは皆、マザコンなのよ」
 と。
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暑中お見舞い

暑中お見舞い申し上げます。
 最近の母は、太陽が北東斜め上にある頃デイサービスへ出陣。
 西南西、目線の少し上に太陽がある頃に帰宅。
どちらにしても、太陽はサンサンと輝き、射し込むというより、身体に刺し込むようであります。

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 今日、7月25日。日曜日で母と一緒です。
 クーラーの効きが普段より悪く、岡山地方気象台にアクセス。午後3時までの最高気温が37度5分と記録されておりました。
 母は胃ろうの身ながら、日々«文句一つ言わず»デイサービスへ通ってくれます。感謝!
 酷暑です。在宅介護者の皆さまにおかれましては、イライラもすると思います。でも、イライラは禁物。ろくなことになりません。
 ボチボチと ボチボチと 焦らず 怒らず そろりそろり と。



KOBUの会

 アルツハイマーの母と二人三脚の八年間、とオレのタイトル画で紹介されているけれど、次号が掲載される七月三十日。その介護も九年目の初日となる。なのだが...
 実は、ある会合。医療・介護を中心に取材・編集する人。介護施設で働く人・経営者。少数ながらオレのような介護者等が集まって意見交換する場がある。
 ちょっと違うかな? 定期の会合場所は東京・新宿の居酒屋なのだから。真摯に意見交換すると表現するよりは、介護全般に関わる人たちの交流の場。オレのように岡山という地方で在宅介護に明け暮れている立場には、人脈を拡げるにはもってこいの場でもある。
 核になるメンバーは存在するものの、毎回、初顔の人も少なくない。基本的には二ヶ月に一度の開催。ここで意気投合すれば、各人が随時に交流の場を設ければ良い。互いのメリットはスコブル大きいはず。
 もっとも、オレは自費で岡山から駆けつけるわけだから簡単ではない。母のショートステイとの兼ね合いもあるし。だから、まだ二回しか参加していない。
 前置きが長くなった。まあ、居酒屋でアルコールを入れながらだから、段々に主観一辺倒でエキサイトし始める人もいる。オレはOKだと思う。仕事を済ませ、ヤレヤレ感で皆、この場にたどり着いて来るのだから。緊張感はポイだ。
 で、一人の介護施設で働く男性から、ストレートな一声がオレに向かって届いた。
 「野田さん、趣味もってる?」
 オレは少々考えなければならなかった。浮かんでこない。
 「今ですかあ? 無いですねえ」
 あれしたい、これもしたい。という欲求や興味はるのだけれど実践できないでいる。ある意味、“在宅介護者の宿命”でもある。大袈裟かな? しかし、外れでもないはず。
 「ダメだよそりゃあ! お母さんの介護。介護の原稿を書く。飲むメンバーも介護関係者ばかり。介護 介護 介護 じゃーん。介護とは全く無縁の趣味をもたないと」
 そして、自身が活動してる趣味について語り始めた。満願の笑顔。話すその表情から楽しさと充実感がヒシヒシと伝わってくる。
 オレは少々の嫉妬。心に命中した。
 確かに、当たりだから余計に動揺もする。今のオレは、全ての道は介護に通ず、の環境設定にONしてるかのようでもあるから。
 だけど、だ。オレは書く人である。今、これを読んでくれている方々と出会えたのも、介護 介護 介護 があったから。
 「公私、介護ばかりでもいいじゃん」
 彼に、次に会ったときはこれでいこうと決めている。
 ところで、けあサポ、この連載担当のT女史ともこの会で一緒したのが初対面。誤解があると困るので付け加えるが、この会の勢いで連載が開始となったわけではない。

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 写真で一緒に写っているオトコは上下なしのオレの兄弟分。彼からT女史へオレを紹介するメールが送られ、その後、オレとT女史がメール交換したり電話でのやりとりからこの連載が決まったのであります。
 この会。“KOBUの会”という。
 名前の由来は写真のネコ。のんべんだらりのネコは兄弟分の家でコブと呼ばれ、そこからKOBUと横文字になった。
見ているだけでホッ! とする。
 オレもホッ! とするためだけに、岡山から費用対効果を無視して参加してるのかもしれない。
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花火 和ちゃんと一緒に!

 梅雨明けした7月18日。岡山市の片隅にある我が町は夜町祭りだった。午後9時から30分間、花火が上がった。
 ♩ドカーン ドッカーーン ドドドーーン♫
 の連続というのは影を潜め、かなり謙虚で控えめな催し物でありました。確か、2008年9月に勃発したリーマンショック以降、勢いというモノを失った感が? 致し方ないところなのでしょう。
 ♬ポーン サラサラサラ ドーン♩
 以前同様の30分間でも、音色に哀しみが漂うかのような?

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 アレッ? オレは詩もいけるかな? 藤川幸之助氏になれるかも?
 そうそう。久々に藤川氏の詩を読もうと、この画面の隣から入れる藤川氏のブログをクリック。以前は気づかなかった“7月”の欄がある。最終回は随分前のはずだったのに。3月だ。そして突然、7月に1項目。AIDMAの法則の順序どおりにオレの注意が引かれる。
 7月をクリック。なんと、藤川氏の新刊紹介ではないか。シンプルそのものだけれど、なかなか良い感じの装丁。淡いグリーン一色と表現すれば正しいのか? 温かさと切なさが共存している。
 まなざしかいご
 “介護”を“かいご”に! 親しみを感じる。編集者も知恵を出し切っているのだろうな。
 脱線してしまった。有名人の宣伝をしている立場ではない。
 母に花火を観せてやりたい。
 そう思い、南向き窓辺。網戸前に肘掛け椅子を置いた。網戸もかなり疲弊して、白色ガムテープで隙間を埋めている。母をベッドから抱っこし運び、座らせた。意味のないことかもしれない。母は失明しているのだから。
 でも、一緒に観る、ということが息子の役割であるような気がして。
 母である 和ちゃんと一緒に!

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確定診断への決断

2003年6月 診察中の微笑み
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小川幾多郎さん

 オレが尊敬する在宅介護者を紹介したい。
 小川幾多郎さん71歳。お母様のマツさんはこの6月18日、100歳になられたばかり。100歳の誕生日、お母様をサポートするケアマネジャーさん、訪問看護師さん、更にはヘルパーさん等方々から祝福された。写真では、ベッド上がお母様。その後方が小川さん。

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 小川さんと知り合ったのは、小川さんが経営する新宿五丁目にあるキタローネでだ。カウンターに10人も座れば満杯状態だけれど、写真のように哀愁漂うシブイ飲み屋だ。リクエストすれば、自慢のギターを手に表情豊かに歌ってくれる。
 オレを小川さんに紹介してくれたヤツなどは、目を閉じて、その場に自分しかいないかのようにして聴く。ときに涙を浮かべながら。

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 さて、71歳の息子が100歳の母親を在宅介護するということ。これは尋常ではない。ましてや、在宅介護だけに没頭しているわけではないのだ。働きながら、生活費を稼ぎながら実母を支えている。
 もちろん、訪問看護師さん等の支えがあってのことだけれど、仕事を終え帰宅すれば小川さんがお母様の下の世話から全て行う。お母様は胃ろうを造設されているけれど、オレの母と同じなので学ぶ点も多い。キタローネにはまだ2回しか寄らせてもらってないけれど、母を在宅介護する者同士&同志、話は弾む。マスターと客という立場を忘れて。
 しかし、考える。オレが小川さんの年齢になっても、在宅介護を継続できるか? 実のところ、考えることなどないのだ。分かりきっているのだから。ありえない。
 正直、本音を言えば、オレは在宅介護者という立場よりライターとしての方が小川さんに惹かれている。一度、店で飲みながら尋ねたことがある。
 「小川さん、いつか取材に伺ってもいいですか?」
 「オマエとは同じ臭いがするもんな。なんならこれから来るか? 泊まればいいんだよ」
 ありがたいお言葉だったが、翌日は朝早い新幹線で岡山へ帰らなければならなかった。オレも在宅介護者で、母を預けているショートステイとの折り合いもあったから。
 今、オレが一番取材対象者として興味ある人。小川幾多郎さん。
 いつまでもお元気で! お母様も!
 小川さん、新宿五丁目のキタローネで毎夜頑張っている。



ショートステイ

 今朝、母をショートステイに託してきた。7月9日より12日まで。12日午後に帰宅予定。 
 今回のショートステイ利用は、純粋にオレの休養のため。先月。母には三泊四日を二度してもらったが、二度ともに、オレが東京へ仕事の打ち合わせで出向かなければならなかったから。
 この連載は6月4日に始動。6月1日。ワイドショー的な表現を借りるなら、この連載担当の『美人編集者T女史』と最後の詰めをしなければならなかったのだ。
 とはいえ、母をショートステイに託すとき、いつも後ろ髪を引かれる思いだ。というのも、母は最近、噎せ・咳きこむことが多くなった。日常的になってきている。唾液を上手くゴックンできないのだ。まあ、今のところなんとか自身で消化できている。季節の変わり目に来る大発作的なモノとは根本的に異なるから。
 オレが後ろ髪を引かれる理由。その噎せ・咳き込んでいるとき、母のそばにいてやれないことだ。我が家では、必ずオレがいる。母のベッド下にいつも。
 デイサービスでも、職員の目線が母から切れても、咳き込めば直ぐに職員が把握する。狭い。だから、誰かが二メートルも離れていない所にいる。
 しかし、ショートステイは違う。直ぐお隣に利用者さんはいるものの、職員の詰め所まではかなりある。母が噎せ・咳き込んでも聞こえる距離からほど遠い。
 母が一人切りで噎せ・咳き込んで苦しんでいるのか? と想像するだけで心が痛む。特に、母がいない我が家にオレ一人でいるとき。東京では、あれやこれやに追われているので母を忘れてる時間ばかり。だけど、オレ自身の休息のとき、オレは母に罪なことをしてるのでは? と考えてしまう。
 オレ自身の休息は絶対に必要だ。身体が悲鳴を上げてるのはオレ自身が一番理解も納得もしている。でも、罪を背負ったかのような? そして、こんな想いをしているのはオレだけではないこともオレは充分に知っている。
 在宅介護。本当に奥が深い。この奥の深さに介護職人たちがもっとビビッと来てくれれば、在宅介護最前線の未来は明るくなると確信する。
 アッチャー!! なんだか今回は偉そうなことを書いてしまったけれど、写真のお二人。今朝、ショートステイでパチリンコ。母とはとっても仲良しな介護職人さんたちなのです。ありがとう。
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決断

 男女に関係なく、病は認知症に限らず、一人で両親なり誰かを在宅で看ていこうとする過程では、必ず“決断”を迫られることがある。
 最近のオレの場合で例えるなら、二週間に一度お願いしていた往診を、三週間に一度にしたことだ。母が低空飛行ながら比較的安定を保っているから。もっとも、これなどは決断というほど大袈裟な範疇には入りはしない。
 ただ、このサイクルで往診を依頼してから三年半ほどになるか? 現実的には迷いはなかったのだけれど、このリズムを壊すことで凶と出るのでは? と、弱気な心が芽生えたことは事実だった。普段、ジンクスとか迷信めいたことは一切無視なのに。
 認知症。母はアルツハイマーだけれど、当然、最初の主治医は精神科医だった。身体障害者手帳一級を取得のため、作業療法士さんと我が家まで出向いてくれる優しい医師だった。母は、病がかなり進行した頃でも医師の前で微笑むことも多かった。オレも心底から信頼していた。オレたち母子は、誰もがするように医師が勤務する病院で診察を受けていた。
 ところが、認知症も重度化すると歩けなくなる。挙げ句、寝たきりに近い状態になる。オレが在住する自治体が発行している冊子で判断するなら、母は完璧な寝たきりだ。確かに、自身で寝返りも打てないけれど、今でも週に最低四日はデイサービスへ通ってるのに。
 少し横道に逸れたが、精神科医を最も必要とする時期は認知症の初期から混乱期までだとオレは強く思う。人それぞれだけれど、混乱期を終える頃になると歩行困難で車イスが必要となり、ベッドなり布団の上で過ごすことが多くなる。母の場合はそうだった。
 そして、介護者を悩みに悩ませる嚥下困難がやってくる。つまり、食事がうまく喉を通らない。普通食~きざみ食へ。きざみ食でも噎せるようになり、母にはフードプロセッサーでお好み焼きを粉砕させて食べさせることが多くなっていった。その先には誤嚥性肺炎が待ち受けている。
 主治医を精神科医から内科医へ移行しなければならなくなる。ここも決断だった。内科医といっても、近所だからではダメだ。往診してくれることがまず第一条件。当然、ケアマネジャーなりオレたちをサポートしてくれる人たちと相談なのだが、最終的にはオレが判断し決断しなければならい。
 次回、もう一度“決断”ということで書くが、オレが今の主治医であり往診医(内科医)に白羽の矢を立てた理由は、母の胃ろうに関係する。
 胃ろうというのは、半年に一度を目安に交換しなければならない。今の主治医はT医師なのだけれど、T医師は胃ろうを造設したO病院勤務を経て開業されたのでO病院と関わりが深い。だから、必ずT医師から胃ろう交換の依頼をO病院にしてもらっている。
 とはいえ、胃ろうを造設したからといって誤嚥性肺炎と縁が切れたわけではない。胃から上部へ逆流する人もある。
 「今日も肺の音は良いですよ」
 往診時、T医師からのこの言葉にオレはいつもホッ! とする。

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前回の胃ろう交換から、ほぼ4ヶ月経過。
不良肉芽が現れてきた。



切なさよ こんにちは

 アルツハイマーの母を一人息子が在宅介護するとき。これは、切なさと向き合わなければならないことが頻繁となる。
 オレたちの年代の母となると、どちら様も凜とした母親が多かったに違いないはず。オレの母もそうだった。高等女学校卒業前に軍需工場に挺身隊でとられ、その工場に向かう最中のチンチン電車中、米軍の機銃掃射にあって田畑を逃げに逃げた話を何度か聞かされた。母を育てた祖母は明治の塊のようなオンナであった。
 母は敗戦後からの約四十年を働きとおしてきた。事務職ではあったものの、練炭を担ぐような力仕事もしていた。だから、私は祖母に育てられた。明治の塊は厳しかった。オレは、高熱がでても台風が来ても学校へ向かわされた。なので、小・中学校は皆勤している。
 凛とした母。明治の塊までではないにしても、母は母だった。どういう意味か? 母は、夏場でも家の中をスリップ一枚でウロウロするということはなかった。オレの世代だとシュミーズとも言っていたけれど、シュミーズの上に必ず薄いブラウスのようなものは身につけていた。
 つまり、オレの前で極力、オンナの部分は見せまいとしていたのだろう。もちろん、オレが中学校以上の年齢になってからのことだと記憶にはあるが、そんな事が記憶に残るくらい母は徹底していた。
 ここからが本旨だ。凜としていた母がアルツハイマーになった。当然、母の言動・行動は尋常ではなくなる。セーターをズボンのように履こうとしたりetc。でも、こんなことは認知症混乱期前の序章だから、振り返ればささやかなモノだった。
 凛とした母が壊れていく。中でも、下の方の感覚が鈍りはじめた頃、オレにとって最初の大きな壁だったように思う。
 母がアルツハイマーと診断されてからは、オレは母といつも一緒だった。買い物にも一緒。散歩を兼ねてだ。診断されてから、そんな年月が経過していない頃だった。買い物に行く途中、母から便臭が漂うのだ。ズボンのお尻の部分を嗅ぐと、ビンゴだった。間違いない。
 回れ右して家に戻り、母にズボンを脱いでもらった。実は、もうこの頃にはオレを息子と認知しておらず、世話係であるオレが言うことは素直に頷いてくれていた。
 で、やはりパンツには便がかなり付着していた。母は、便を出してペーパーで拭くことをしなくなっていた。そして、最後まで出し切ってもいなかった。
 「和ちゃん、一回だけ、ウンコしょうるところ見せてくれる?」
 「ええよ」
 凛とした母は消去しており、オレは現実を確認することができたのだ。
 母のお尻を白湯で洗い流してやり、別のパンツを履かせた。オレは風呂場へと向かった。まずは、便で汚れたパンツを手洗いしてから洗濯機に入れなければならないから。
 手洗いをはじめた。突然、切なさがこみ上げてきた。そして、目頭に涙がにじんだ。
 “切なさよ こんにちは” の始まりだった。
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プロフィール
野田明宏
(のだ あきひろ)
フリーライター。1956年生まれ。約50カ国をバックパックを背負って旅する。その後、グアテマラを中心に中央アメリカに約2年間滞在。内戦下のエルサルバドルでは、政府軍のパトロールにも同行取材等etc。2002年、母親の介護をきっかけに、老人介護を中心に執筆活動を開始。2010年現在、83歳になる母と二人暮らしで在宅介護を続ける。主な著書は『アルツハイマーの母をよろしく』『アルツハイマー在宅介護最前線』(以上、ミネルヴァ書房)など多数。『月刊ケアマネジメント』(環境新聞社)にて、「僕らはみんな生きている」連載中。
http://www.noda-akihiro.net/
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