白光との出遭い
以前のブログで私のキリスト教との出遭いを書きました。今日はあのM牧師との再会をめぐる物語りです。
私は1949年4月15日、復活祭にM牧師により洗礼を受けました。ところが2か月後の6月4日、聖霊降誕祭と呼ばれる日に教会が2つに分裂してしまいました。太平洋戦争当時に追放された外国からのミッション教団は、終戦を経て日本へ戻ってきていました。私の教会にもその波がおしよせたため、私の導師であったM牧師は10人位の信徒と共にミッションに戻ることになり、2派に分裂したのです。
新しく入会したばかりの私にとって、教会が分裂したことは驚きでした。そして、状況のわからないままにM牧師と別れてしまいました。私にとっては「躓きの石」でした。
それから3年後、M牧師はがんにかかり、重篤な状態になっていると伝え聞きました。私はすぐにM牧師宅に伺いました。応接に出てこられた夫人から面会謝絶の旨を伝えられましたが、なんとか面会を許されました。
自然の風景との出遭い
秋のある日、東京都立川市にある国営昭和記念公園を散策しました。
公園の中央に“みんなの原っぱ”という広い芝生があって、家族連れがお弁当を広げたり、キャッチボールを楽しんだり、平和な光にみちていました。
私は4台連結のパークトレインに乗って、満開のコスモス園、水鳥の池、こどもの森など、広大な庭園を1周しました。
母との「出遭い」をめぐって
前回に引き続き、今回は母との「出遭い」について語りたいと思います。
私は5才頃から烈しい気管支喘息の持病がありました。気候の変わり目が鬼門です。秋晴れの日も喘息で寝込んでいました。食べ物にもアレルギーもあり、鯖、そして茄子が原因で喘息をおこしました。さらに、運動や疲れもきっかけになりました。
一度発作がおこると三日三晩は急性期で、烈しい呼吸困難のため横になって眠ることができません。数枚の厚い布団を体の前後に置いて、それによりかかってウトウトするくらいがやっとでしたから、看ている親もつらかったでしょう。弟と2人の妹がいましたが、元気な彼等が羨ましく、ひがんだものです。しかし、母は長男である私をことに気にかけてくれました。戦時中でしたから、今から考えると本当に命と隣り合わせの日常の中で、大変だったと思います。
父との「出遭い」をめぐって
これまで3回にわたり私が体験したさまざまな「出遭い」を紹介してきましたが、もっとも身近な存在である私の父、そして私の母との「出遭い」について語りたいと思います。
私の父は、愛知県の農家、地主の長男に生まれました。恵まれた環境に育ち、東大を卒業して銀行員になり、晩年は地元に戻って家業を継ぎました。一切の公職を避け、悠々自適の生活でした。
私が幼少の頃の父は厳しく、そして怖い存在でした。叱られて庭を追いまわされた記憶があります。しかし、私が自立し、家族を伴って帰省するようになると、そのたびに喜んで迎えてくれました。そして帰る時には、老夫婦で小川のほとりに佇み、いつまでも見送ってくれました。