母が咀嚼(そしゃく)する
「噛む」
母の歯を磨いていたら
母が私の指を思いっきりかんで
なかなかはなさない
口をこじ開け
指をやっとのこと取り出した
私の指からでてくる血
私も母も生きている
私が痛がっていると
もう母は何もなかったかのように
居眠りをしている
何かおいしい物でも食べる夢を
見ているのか
母はむしゃむしゃむしゃと口を動かしている
もう何も食べない口が
むしゃむしゃむしゃと空気を噛み続ける
そして、時々目を開けては
あれ場所を間違えたかなあ
という顔をして、また眠る
向こう側の世界で
父と食事でもしているのだろうか
母は私の指を噛む
私がかつて母の一部であったことを
確かめるために
母は私を噛む
自分が母であることを
私に思い出させるために
母は噛む
生きるためではなく
生きていることを
確かめるために
「かむ」にもいろいろある。「口」に入れて「歯」でかむという意味を表す「噛む」。通常この漢字を使うことが多い。他にも、「嘬む」はかじって食ったり、一口に食いつくしたり、むさぼって食う様を表す言葉。また、「咬む」もかじる字義をもつ言葉だが、かみつくという意味もあり本能丸出しの動物的な感じを受ける言葉だ。「咀む」となると、かみしめ味わうという意味になる。漢字の旁(つくり)の「且」は、供え物をのせる台の象徴で、口の中の台つまり舌の上に食物をのせて味わうということになる。「嚼む」はというと、かみ砕くという意味をもつ「かむ」。旁の「爵」は細かいという意味。口の中で細かくかみ砕くといういうわけだ。
最後の二つ、「咀む」と「嚼む」をくっつけて「咀嚼(そしゃく)」ということになる。つまり、咀嚼とは食物をかみ砕いて味わうこと。10年前母が71歳の時、その咀嚼も嚥下もできなくなって、胃瘻から栄養をとることになった。口を使って、食べなくなったので、歯や口のことはどうでもいいと思っていた。母にはまだ自分の歯が二十本残っている。八〇ー二〇運動というが、母のように認知症になって、ものを噛まなくなったら、歯はじゃまになる。虫歯になったら治療しなければならないし、歯を磨いていると手を噛まれ、痛い思いをする。ケアする側には総入れ歯の方が扱いやすいずっと思っていた。
2年前のある日、酔っぱらった勢いで歯科医の友人にそのことを言ったら、それは違うと怒られた。使わなくなっても、歯を磨き、歯根を刺激し、唾液腺のあたりを刺激することで、脳細胞の働きを刺激して、意識もはっきりとしてくるんだと。更に、口腔ケアで口の中を清潔に保つことで、肺に雑菌が入ることも押さえられると。その友人が、母のために電動の歯ブラシやら口の中の乾燥を防ぐジェルやらをくれるので、半信半疑であったが、友人に怒られたのもあって、母の歯根を刺激し、母の口を外側から内側から刺激し、清潔に保った。病院でも口腔ケアの計画まで作ってくださった。いつも眠ってばかりいた母が、目を開けて私を見つめるようになった。私を見て、声を上げることが多くなった。振り返ってみると、この数年高熱が続く重い肺炎になることがなくなった。
母の口の中が清潔に保たれ、元気な母の姿を見ると、友人のアドバイスや病院の方々のケアに感謝せずにはいられない。そんな母の口が、時にもぐもぐもぐと何かを咀嚼しているように見えるときがある。この口腔ケアで母が元気になっていく姿を目の当たりにする前は、胃瘻から食物を食べるし、言葉も喋らないんだから、母にとって口なんて何にも役に立たないものだと思っていたが、今は空気を咀嚼するように口を動かす母の姿にも意味があるように思えてきたのだ。唾液がでて、口の中を殺菌するとか、自ら自分の脳を刺激しているんだとか。「咀嚼」という言葉には、「内容や意味をよく考えて、十分に理解し味わうこと」という意味もある。母は自分の人生を口の中で細かく「嚼み」砕き、「咀み」しめ味わっているではなかとさえ思う。母が私の指を噛んだ時のあの痛み。母は、私の脳と自分の脳をいちどきに活性化する。
◆アラカンおばちゃんさん、コメントありがとうございます。「咲き始めの木蓮の白は純白で、まるで女学生のような初々しさ」というアラカンおばちゃんさんの言葉で、私が白木蓮の花が好きな理由がまた一つ分かったような気がします。白木蓮の白を見つめながら、十代の頃の淡い恋を私は思い出しているのかもしれません。「茶色くなった自分を見られることも、それはそれで、人生の醍醐味なのかもしれない、そんなことを考えさせられた詩でした。」と、アラカンおばちゃんさん。短く言い換えると「老いとは人生の醍醐味」、アラカンおばちゃんさん、これは名言です。
老いを受け入れるということは、自分自身を受け入れることに他ならないのだと思います。茶色に朽ちた白木蓮は、既に「白」木蓮ではないのですが、それを受け入れていく心の働き、そこに人生の醍醐味があるように感じます。
コメント
藤川幸之助さま
いつも、シミジミと拝読させていただいてます。
私は岡山在住で、在宅でアルツハイマーの母を看ている54歳・独身中年オトコです。
母がアルツハイマーと確定診断されて、もうじき9年目を迎えようとしています。
父は他界しておりますが、母と一緒に3年、在宅で介護し家で看取りました。
併せれば、在宅介護も10年を超えました。
まあ、こんな事情もあり、我が親を施設に託す息子・娘さんたちとは距離を置いてきました。
というか、いろんな事情があることを承知してはいるのですが、どうしても嫌悪してしまうのです。
だからといって、私が素晴らしい在宅介護をしてるわけではありません。
母に手も上げました。入れ歯を洗い、口に含まそうとして何度も噛まれもしました。ニュアンスでは 咬まれる ですね。入れ歯そのモノを噛むこともあり、一日に二度、歯科医へ修理に出たこともありました。
介護地獄を長く彷徨いました。周囲からは、もう限界だから施設へ。
との声も多く頂戴いたしました。その方が正解だったのかもしれません。
とはいえ、母を独りぼっちにさせてしまうようで、決断するに至らず今日に至っております。
今日に至っては、愛おしくて仕方ないのですけれどね。
前置きが長くなりました。
実は、藤川さんの著書、
『満月の夜、母を施設に置いて』
を発売されて直ぐに読み、藤川さんのファンとなり、
施設に託す方々の悲哀を理解も納得もできるようになりました。
そして今、アチコチの施設に出向いて取材などもしているのですが、
施設もなかなか良いなあ!
と、自己変革していく私がいることに少々驚いています。
この切っ掛けは、満月の夜 と出会ったことにあると確信します。
自己中心的思考から、少しは他人様の心根が理解できるようになれたご著書に感謝!
末筆ですが、これからも益々のご活躍を期待しております。
私の母も病院の療養型病床に入院しています。主介護者だった父が亡くなり施設利用せざるを得なくなり母をだます形で病院に入院させました。帰るときは申し訳なさで涙が止まりませんでした。その時担当してくださった方が「いつか解り合えるよ」といってくれた言葉が私にとっては救いでした。あれから3年半母の認知症は着実に進行を続け、2年前には胃婁にもなりました。長期の休みがあるお正月に3泊の外泊をさせますが其れ以外は一週間に1回の面会のみ。行くたびに「王様の耳はろばのみみ」を読みます。
ストーリーの理解はできないと思います。途中で気持ちよさそうに眠ってしまうこともあります。でも最後の「立派な王様になったということです。おしまい」というと手たたきながら「拍手喝采」と言うのです。多分聞き慣れた娘の存在を感じ、子どもを褒めるために一生懸命拍手してくれているのだと私自身も感じています。
確かに今になって母を愛おしく思うことができるようになりました。母が認知症にならなかったら本を読むこともなかったと思います。施設に預けた事を後ろめたく思っていた日々もありました。しかし、このことは私に必要な課程であったのだと思うようになりました。後どれくらい続けられるのだろう・・待っていてくれる人がいることはいくつになっても嬉しいものですね。
先生の講演また聞きたいです。
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