ただそこに、在るだけで
一本の木のように
あの一本の木のように
届かぬと分かり切った空に向かって
ただいつまでもひとすじに伸びようとして
立っていられるだろうか。
あの一本の木のように
深く根を張り
どんな悪口雑言にも動じず
動かずにいられるだろうか。
あの一本の木のように
誰の木陰にも入らず
背に陽をめいっぱい浴びながらも
自分の木陰をつくり
人を憩わせることができるのだろうか。
あの一本の木のように
花を咲かせぬことで
実を結ばぬことで
自らを責めずにいられるだろうか。
あの一本の木のように
切られ削られ塗られ組み込まれ
人のために自らを変えて
生きていくことができるのだろうか。
あの一本の木のように
森の暗闇の中
独りでその寂しさにじっと耐え
朝日を待つことができるのだろうか。
この一本の木のように
風に倒れた自分をじっと見つめ
静かに死を
受け入れることができるのだろうか。
そして
枝も枯れ果て
忘れ去られても
その朽ち果てかけた体から
みずみずしく生き生きとした芽を
たくましく芽吹かせることが
私にはできるのだろうか。
あの一本の木のように
「木」の付く慣用句にはろくなものはない。無愛想な振る舞いのことは、「木で鼻をこくる」だし、木のように気持ちや体が堅くなる喩えを「木になる」というし、何かを得ようとしても方法を間違うと得られない喩えを「木によって魚を求む」と言い、見当違いなことを戒め、人情を解しない木石のような者のことを「木の股から生まれる」なんて嘲るのだ。木には言葉がないので弁解しようもないが、心も体も堅くて、人情の機微に通じない野暮な者の典型だと木は思われている嫌いがある。
「アバター」という映画を見に行った。3D映画だというので、それを楽しみに見に行った。体をよけてしまうくらいに迫ってくるものだとあまりに期待しすぎたが、映像の奥行きと立体感には驚いた。先住民ナヴィの住む衛星パンドラの自然が、その生命のつながりとともにとても美しく描かれていた。中でも、木の描写は素晴らしかった。先住民ナヴィは、「ホームツリー」と呼ばれる巨大な木の中で暮らし、亡くなった者達の声が聞こえるという「魂の木」と呼ばれる神聖な美しい木を心のよりどころにして生きていた。日本の慣用句の融通の利かない野暮天像とは違い、木は人間の精神性と深く結びつくものだとして描かれていた。
私も、木に精神性を感じる方だ。私は、山の中の小さな街で生まれた。幼い頃、多くの木に見守られ育った。泣きたいときは一本の大きな木にしがみついて泣き、嬉しいときは見上げて笑った。今でも時間を見つけては、森へ行く。木の根本に腰掛け、木を見上げ、時にはしっかりと木を抱きしめる。私は木の大きなエネルギーを感じる。木の存在を全身で感じる。言葉ではなく、存在が何かを教えてくれる。存在が教えてくれるものは、言葉で伝わるものよりも深く、広く、強い。その木の存在に、私は包まれ、私の心は打ち震える。時には畏れのようなものを感じるときもある。
じっとベッドに横たわる認知症の母を見つめていると、その木々を思い出す。母は何かをするのではなく、ただそこにいることで私を励まし、私に道を示してくれている。木もまた、ただ静かに私を見下ろして、懐に抱いてくれる。母は木のようだと思う。言葉ではないもので私を抱き、言葉ではないもので私の心を慰め支え、言葉ではないもので勇気づけ、前へ進ませてくれている。人も本来そこに存在するだけで大きな意味を持つということを、母は教えてくれる。あまりにも言葉に頼りすぎた自分に気がつく。私もまた、言葉で飾らなくても、言葉で言い訳をしなくても、ここに存在しているだけで意味があると思えるようになった。何の才能もない、ただの木偶(でく)の坊の自分自身を受け入れられるようになった。これでも、この私でもここにいるだけで誰かの役に立っているのかもしれない。ただただ嫌いだった自分のことが少しずつ好きになったように思う。
木偶(でく)とは木彫りの人形のこと。また、「木」への悪口を慣用句の中に見つけてしまった。しかし、人は木で器を作り、道具を作り、船を造り、燃料として燃やし、家を造ってその中で暮らしてきた。どんなに、堅いだとか粋ではないと木は言われようとも、木は物質的にも精神的にも我々人を包み込み、支え続けてきたのだ。「木静かならんと欲すれども風止まず」木は静かになろうとするけれども、風が止まないのでどうにもならないの意味から、親孝行しようと思い立ったとき親はいないことの喩え。親のいる間に孝行せよとの意味。木も認知症の母も言葉を超えて、私を育ててくれているということを、今日はブログで書いたつもりだが、この慣用句は「木」と「母」とが口をそろえて私に小言を言っているように聞こえて、耳が痛い。
◆紫陽花さん、コメントありがとうございます。「眼張る」という言葉さえも「素敵」な言葉だと私のつたない解説で思っていただけたので、「素敵」も調子に乗って解説します。
実は「素敵」も、「頑張る」同様当て字です。「すばらしい」の「す」に「てき(的)」を付けた言葉。つまり。「すばらしい的」→「す的」→「素的」→「素敵」となった言葉。本来は江戸の流行語で、程度が甚だしい様をいう言葉だそうです。そういえば、程度がとても甚だしいことを「素敵滅法」と言いますよね。
◆次女N子さん、コメントありがとうございます。「それから今小樽では鰊が近年に無く大漁なのだそうです。数の子入りの焼き鰊が食べられるのは今の時期だけ」と、次女N子さんのありがたい北海道情報。この文を読んだだけで、腹がグーッと鳴りました。3月の札幌とても楽しみですが、実はその前2月26日に北海道網走郡大空町で、27日に置戸町訓子府町で講演をします。この地域、天気予報で最低気温が-20度と表示されているのですが、もう春の陽気の長崎に住んでいる私には想像も付かない気温です。
◆kikiさん、コメントありがとうございます。
「まとまりの無い、長い文を読んでくれてありがとうございます。書いていて少しづつ気持ちが整理できました、有難うございます。」と、kikiさん。心理学では、自分の心の中を書いたり、話したりして吐き出すことで、心を浄化し軽快にすることをカタルシスと言います。私などは、詩を書くのが仕事ですので、母とのことを詩に書いて仕事をしながら、心の浄化もしているというわけです。なんか、お得のような感じもします。
◆れごさん、コメントありがとうございます。
「2月13日、講演を聞きました。私は、涙・涙・・涙・・・。化粧もすっかり落ちて、眉毛が1センチ短くなっていました。」と、れごさん。講演を聞いていただき、ありがとうございました。2月13日の講演は、約2000人の方が集まったと主催者に聞きました。2階席も満席でしたので、かなり多くの人が集まっているなあと思い、全体を見渡しながら話しましたが、私の話が誰かの眉毛を短くしているとは思いもしませんでした。この場を借りて、お詫びします。今度、私の話を聞かれるときは、1センチながめに眉毛を描かれることをお奨めします。
コメント
有難うございます。又一つ覚えました。
素敵滅法=素敵を強めた言葉と出ました。
ここ何年も辞書等開けませんでしたが、
意味が分からなかったので調べて見ました。
母の存在は私も感じます。3月七回忌、
生きていて欲しかったです。
母に対する気持ちを姑に持てたらいいな~~~
思う気持ち新たに切り替えてみよう~~。
有難う御座います。
数年前、恋人を亡くした知人がいました。
日々その知人と顔を合わせる環境にいた僕は
日々『何をしてあげたらいいのか!?』という事を
考えていました。
近しい人との死別を経験した事のない僕にとって
知人にかける僕の言葉は無力のようにも感じられ
それでも言葉を捻出し接する日々でした。
ある日、過去のつらかった自分の別れを思い起こし
その時の自分の気持ちを探ってみました。
辿り着いたのは気の利いた『言葉』ではなく
見守ってくれる誰かの『存在』でした。
次の日から捻出した言葉ではなく
見守ろうと思う気持ちで知人に接するようにしました。
それから少しずつ知人の表情は変わり
口元がほころぶ日が訪れた時
存在する事の強さを実感しました。
言葉で何でも片付けてしまう日常の中で
『存在』する事の強さを教えてくれた知人には
今でも感謝しています。
※今回『木』の立場からのようなコメントになり
偉そうで申し訳ありません。
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