ただそこに、在るだけで
一本の木のように
あの一本の木のように
届かぬと分かり切った空に向かって
ただいつまでもひとすじに伸びようとして
立っていられるだろうか。
あの一本の木のように
深く根を張り
どんな悪口雑言にも動じず
動かずにいられるだろうか。
あの一本の木のように
誰の木陰にも入らず
背に陽をめいっぱい浴びながらも
自分の木陰をつくり
人を憩わせることができるのだろうか。
あの一本の木のように
花を咲かせぬことで
実を結ばぬことで
自らを責めずにいられるだろうか。
あの一本の木のように
切られ削られ塗られ組み込まれ
人のために自らを変えて
生きていくことができるのだろうか。
あの一本の木のように
森の暗闇の中
独りでその寂しさにじっと耐え
朝日を待つことができるのだろうか。
この一本の木のように
風に倒れた自分をじっと見つめ
静かに死を
受け入れることができるのだろうか。
そして
枝も枯れ果て
忘れ去られても
その朽ち果てかけた体から
みずみずしく生き生きとした芽を
たくましく芽吹かせることが
私にはできるのだろうか。
あの一本の木のように
眼張(がんば)る介護
祈る
父の仏壇の前で手を合わせるとき
母のことをどのようにお願いしようかと迷う。
「病気が治りますように」
と祈るにも
アルツハイマーという病気は
治りそうもなく嘘くさい。
「母が一番辛くないようにしてください」
と祈るとなると
母の息がすっかり止まり
安らかな顔が脳裏に浮かぶ。
「母が幸せになりますように」
と祈るとなると
天国へ行って父と再会し
もうボケもどこかへいってしまった
りりしくて嬉しそうで幸せそうな
母の顔が目に浮かぶ。
結局何にも祈らず
「まだ母さんを連れて行かないでよ父さん」
と小言のようなことを
父の写真に向かって
毎朝毎朝
お経のように言う。
(「満月の夜、母を施設に置いて」中央法規)
不自由ではあるけれど、決して不幸ではない
「パチンコ」
パチンコに連れて行くと
認知症の母は声を出して喜んだ。
「もう止めておけ、噂になるから」
父はそう言っていたが
「母さんパチンコ行くか?」
と言うと母は首をたてに振って
ニッコリと笑い、私の後についてきた。
私の横に座り
チューリップに玉が入るごとに
ニッコリニッコリする母。
その笑顔を見て
がぜん張り切る私。
一つ一つの玉が
人生の一日一日のようにも思えた。
チューリップに入るラッキーな〈一日〉もあれば
ただ出口の穴へめがけて
すとんと落ちるだけの〈一日〉もあって。
*
その日の台はさっぱりだった。
消えていく玉を恨めしく見つめていたら
隣の席に座っているはずの母がいない。
慌てて探すと
母は床に落ちたパチンコ玉を拾っていた。
他人のパチンコ台の下に手を伸ばし
幸運になるのか
不運に終わるのかまだ分からないパチンコ玉を
一つ一つ夢中で無心に拾っていた。
失った日々を、一日一日
取り戻そうとでもするかのように拾っていた。
「母さんみっともないぞ」
振り返った母は
両手に山盛りのパチンコ玉を
ニッコリと笑って私に差し出した。
パチンコ屋の無駄に明るい照明に照らされて
母の手の中で
パチンコ玉が一つ一つ
落ちてきた流れ星のように光っていた。
『母の詩』長崎新聞