補い合うこと
この手の長さ
背中のあたりがかゆくて苦しんでいると
「一人では
何でもかんでもできないように
手はちょうどいい長さに作ってあるのよ」と母は言って
ぼくの背中の手の届かないあたりを
かいてくれた
そんなに言っていた母も認知症になり
母一人では何にもできなくなった
母一人では渡れない川を
二人で渡りきろう
母一人では登れない山を
二人で越えよう
人が孤独にならないように
人が愛で引き合うように
人が人を必要とするように
人が傲慢にならないように
この手をこのちょうど良い長さに
作ってあるに違いない
ぼくにもとうてい一人では
できないことがある
できない二つのことが
母とぼくとで
できる二つのことになる日が
来るのかもしれない
ぼくの人生の地図の一部が
母の中にあり
母の人生の地図の一部が
ぼくの中に
きっと潜んでいるに違いない
『やわらかなまっすぐ』(PHP刊)に関連文
先週のブログで、「母が「キヨちゃん」と看護師さんなどに呼ばれると嬉しくなる。親しみ深く母に接してもらっているようなありがたい気持ちに、私はなるのだ。」と書いたら、ひよこさんからこんなコメントをいただいた。「このブログを読むまで、私も「ちゃん」づけは嫌だなと思っていました。これまで何の関わりもない、しかもずっと年下の人に「ちゃん」で呼ばれるなんて、自分だったら嫌だなと思うのです。でも、藤川さんのような考え方もあるんだぁと興味深く読みました。藤川さんの意見には賛成です。でも、きっと「ちゃん」づけで呼ぶ人は、藤川さんのように深く考えていなくて、たんに子供扱いしてるだけじゃないかなって思います。介護職の人には、ぜひ「自分に置き換えて」、考えて、行動してほしいと願います。」(ひよこさん、コメントありがとうございます。今日はここでお礼を。)
ひよこさんへの返信を、いつものようにブログの下に書き始めたとき、ふと思った。「ひよこさん、コメントありがとうございます」ではなく。「ひよこちゃん、コメントありがとうございまちゅ」と書いてみたらどうだろうかと。「まちゅ」というのは冗談であるが、「ひよこちゃん」と書くと、ひよこさんとひよこさんの書いた文を馬鹿にして、ひよこさんに失礼になるのでそれはできないと思った。冗談ででも「まちゅ」なんて書いたら、私の人格まで疑われてしまうと、一人で考えて赤面した。ペンネームに対してでさえもそうであるので、人の名前であると尚更のこと。名前への尊厳はその人への尊厳へとつながっているのを感じた。
幾人かの友人に聞いてみたが、「自分の親がちゃん付けで呼ばれるのは、親が子供扱いされたようで気持ちいいものではない」「子供でさえ親に敬意を払っているのに、自分の親がちゃん付けで呼ばれるのは親が馬鹿にされたような気がする」「分からなくなっているからといって年上の人にちゃん付けをするのは失礼だ」というのが大方の意見だった。見ず知らずの人に、自分の親が「ちゃん」付けで呼ばれるのは、一般的には不快なことのようである。「ちゃん」は親しみを表す表現ではなく、親しい間柄での呼び名なのである。
そういえば、私を「こうちゃん」とちゃん付けで呼ぶのは、幼い頃の友達か幼い頃に住んでいた近所の人たち、親兄弟親戚などの血縁の人たちだけだ。母もまた、近所の人たちや友人、親戚などの血縁の人たちには「キヨちゃん」と呼ばれていた。私の母が「キヨちゃん」と呼ばれて不快でないのは、母とのこの親しい間柄のことを私が思い出すからだと分かった。私の感傷にしか過ぎないのかもしれないが、母もまた「キヨちゃん」と呼ばれることで、「キヨちゃん」と呼んでくれていた近所の人たちや親兄弟のことを思いだしているのではないかとも一方では思うのだ。しかし、母がどう感じているかは私には分からない。そこがジレンマでもある。
母が認知症にならなかったら、「ちゃん付け」のことなんて考えなかったろうと思う。母が認知症になって、母を通していろんなことを学び、いろんな人に出会いその人達のおかげで、それまで考えたことがなかった命や人の存在に関して深く考える機会が増えた。認知症の母の世話をするようになって、人と人とは足りない部分を補い合って生きているのではないかと考えるようになった。人の助けなんか一切いらないと思っていた。自力と才能でやっていけると思っていた。自分の考えは決して曲げなかった。そんな私が、何もできなくなっていく母を目の当たりにし、それを補いながら、その過程で母にいろんなことを教わった。認知症の母を介して、いろんな人に出会い、いろんなことを教えてもらった。未完成のままの私の人生の地図。その切れ端を、出会う人出会う人一人一人が持っていて、その出会いの中で、自分の人生の地図はその姿を現していく。そんな風に感じるようになって、人との出会いを大切するようになった。人は、人とふれあい、人や人の考えを受け入れてみることでしか、本当の自分自身と出会えないのかもしれない。新しい年が始まった。新しい出会いを一つ一つ大切にしていきたいと思う。ひよこさんに、また一つ私の思慮を深めてもらった。
コメント
はじめまして。
とってもお母様へのやさしさが感じられ、あったかい気持ちになりました。
ちゃんづけを嫌がられるご家族が多いのは事実ですね。(自分の周囲ですが)
幼馴染や親しい間柄ならいいのですが、介護される人が、
フレンドリーな気持ちで呼ぶのではなく、
上から目線で馬鹿にしていると怒られます。
あなたいやじゃない?自分の親が20代や30代の若者に、
何もわからないからって、ちゃんづけされる呼び方、…
って聞かれたことがあります。
難しいですが、接する方のお気持ち・態度も大いに関係しますね。
また、拝読させていただきます。
いろいろ学ばせて戴けて、ありがたいです。
藤川さん、こんにちは。
私のコメントに対して真剣に考えてくださって、ありがとうございます。
>「ひよこちゃん、コメントありがとうございまちゅ」
という一文に、笑い転げてしまいました。
当然、いきなりそんなことされたら「馬鹿にされた!」と感じることですが、藤川さんの思いがわかったので、素直におもしろかったのです。
きっと「ちゃん」付けも、「馬鹿にしている」のではなく、1日中ずっと一緒に過ごす中で、職員の方がお年寄りに対して愛おしさや親しみを感じて「ちゃん」で呼ぶのだろうと思いました。
でもそれは、双方の信頼関係、つまり、呼ぶ人も呼ばれる人も、そして、お年寄りとも家族とも十分に人間関係ができてから許されることなのでしょうね。
これからもブログ、楽しみにしています。
藤川先生こんにちは
初投稿させていただきます。
補い合って生きていること・・というのは、なかなか受け入れるのが難しい面もあるなぁと思います。いろんなことをする時に、自分の考え方で、自分のペースでやった方がラクな時もあります。だから補ってもらわない方がラクと・・・
でも介護はそうはいかないですね・・。
育児もそうです。
いろんな人に補ってもらって見えてくるよさを見つめてみたいと思いました。
ありがとうございます。
◆あおぞらさん、コメントありがとうございます。「補い合って生きていること・・というのは、なかなか受け入れるのが難しい面もあるなぁと思います。いろんなことをする時に、自分の考え方で、自分のペースでやった方がラクな時もあります。だから補ってもらわない方がラクと・・・」と、あおぞらさん。私もそんなふうにながいこと思っていましたし、仕事の時などは、今でもそう思うときがあります。自分の力で何でもできると思っていましたし、人の力なんて借りなくったって立派にやっていけるとずっと思っていましたが、振り返ってみると自分一人でやってきたと思っていたことが実は人に助けられ、人に支えられていたことが、私にはとても多くありました。本を書くこともそうですし、講演もそうです。母がいなければできないことです。母の介護でさえも、母のできないことを私がやっていたつもりが、実は母という存在が私にいろんなことを経験させてくれていた。私に足りない人間性を、母がこの体験から引き出してくれていたと思うのです。こういうのも「補い合う」ということではないかと思います。補い合うという言葉をあらためて使わなくても、これが「生きること」そのものだとも思うのです。私のような思考の浅い人間が、こんな深いことを、あぞらさんのコメントから考えました。ありがとうございました。
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