懲(こ)りずに「幸せ」について考える
「手をつないで見上げた空は」
幼い頃
手をつないで見上げると母がいた
青空は母よりもっと遠くにあって
大きな白い雲が一つ流れていた
幸せのことなんて考えたことなかった
私がつまずき失敗をすると
私の手を両手で優しく包んで
母はいつも青空の話をした
雲が流れ雲に覆われ
青空は見えなくなり
時には雨が降るから
青空を待ちこがれて
青空の美しさに
心打たれるんだと
何度失敗して何度つまずいたことか
そして何度この話を聞いたことか
認知症の母との日々の中で
苛立ちという雲が出て
悲しみという雨が降った
私は何度も失敗してつまずいても
母は何も言ってくれなくなったが
手をつないで散歩をすると
いつも母は静かに空を見上げていた
青空がただ頭上に広がっている
幸せもまたただあるもの
求めるものではなく
気づくものなんだ
と母と手をつないで
空を見上げるといつもいつも思う
この詩は、拙著『手をつないで見上げた空は』(ポプラ社)の献辞に書いた言葉を詩に仕上げたもの。母が認知症になって、こんな毎日がいつまで続くのだろうかと思っていた。こんな毎日に幸せなんてないと思った。そう思って、幸せとは何なんだろうと反芻した。結局なんにも分からずに空を仰いだら、ふと母が幼い頃から私に言っていた言葉を思い出した。「青空を待ちこがれて、青空の美しさに心打たれるんだ」と母が言っていたことを。そう言っていた母がわけの分からないことを口走り困惑する日々や私のイメージ通りに動かない母に苛立つ日々、肺炎で死にそうな母の姿を見て死なないでくれと天に懇願した日々もまた幸せに続く道なんだと思いこもうとしても、なかなか私は納得できなかった。
執着の「執」は、「丸」に似た旁(つくり)が人で、偏の「幸」が手枷(てかせ)の象形を組み合わせた漢字。手枷(てかせ)でとらえられた人の形を表しているらしい。これに対し、「幸」という単独の漢字は人にはめられていない手枷の象形。手枷にはめられるのを免れて、幸せであることを意味する。人から自由を奪う刑の道具が「幸(しあわせ)」とは面白い。私を思い悩ませ自由を奪っていたそんな日々こそが、幸せなんだとこの漢字は教えてくれる。雨が降り、空は雲で覆われるからこそ、青い空がさらに美しく見える。
また、幸せは「仕合わせ」とも書き、めぐり合わせや運命のことをも言う。母が認知症になり、認知症という病気に出会い、考えもしなかった認知症の母にめぐり合った。それまでの母とは、全く違う母だった。でも、そういう母にめぐり会い、私は私の中から母を思いやる気持ちが引き出されていくのを感じた。この母を見つめ、寄り添い、幾編の詩が生まれたことか。母が詩を書かせてくれた。母が私を通して詩を書いていると言っても言い過ぎではない。母が認知症になる前の詩集はたったの一冊。数千冊売れただけだった。教師を続けながらでしか。詩人や作家では暮らしていけなかった。
しかし、母が認知症になって母のことを詩に書き、もう何冊も詩集を出した。ありがたいことに多くの人に私の詩を読んでいただき、全国各地で講演もできるようになった。母が認知症になって、私の好きな道で暮らしていけるようになった。母に導かれて、私は私の歩むべき道を歩いているような気がする。これが幸せなのかもしれないと、ふと私は気がついたのだ。そして、これも母が認知症になってからの苦悩の日々があったからかもしれないと思う。つまり、私を思い悩ませ自由を奪っていたそんな日々こそが、私に幸せを気づかせてくれていると深く思うのである。
私の好きなジャズのベーシスト、リチャードボナの「kaze-ga-kureta-melody」*1という曲の中で、ボナは日本語で歌う。「虹が架かる地平線に/まっすぐに続いている道/どんなに遠くても歩いていくのは/そこに希望の歌があるから」と。希望の歌とは、地平線のもっと遠くに広がる青空なのだ。私たちの一番奥には、いつも希望のように青空があるのだ。「幸」という漢字は人にはめられていない手枷の象形で、手枷にはめられるのを免れて幸せであることを意味すると書いた。幸せに執着せず、幸せになりたいという手枷から自由になって初めて、幸せに気がつくことができるんだとつくづく思う。
参考文献:『新漢語林』大修館書店
*1 CD「Reverence」リチャード・ボナ
◆ゆきママさん、コメントありがとうございます。「名古屋での講演会に夫が参加させてもらい、夫は「介護と子育ては似ているかもなぁ~」と言っています。」とゆきママさん。ご主人がおっしゃるように、介護と子育てはとてもよく似ていると思います。一見、高齢者に寄り添う介護は「衰えていく者」を支え、子育ては「育っていく者」を育むように見えますが、実は同じベクトルなのです。つまり、高齢者の命も子供の命も死へ向かっている。どちらも、命に寄り添うということなのだと思います。「生活の中で息子の瞳に「鬼」が映っていることがあります。あ~~自己嫌悪です。」とも、ゆきママさん。赤鬼ですか青鬼ですか?私は子供にも母にも赤鬼でした。赤鬼はカッとなって怒っている人間の姿と思うのですが、青鬼とはどんな鬼なんでしょうか?。これは子どもの頃からの疑問です。青鬼になられたときにどんな状況か、教えてください。
◆ぷーさん、コメントありがとうございます。
「利用者さんのご主人様が会いに来られては「おかあさん おはよう」と微笑みながら声を掛けられます。奥さまはとてもいい顔をされます。そこに流れている空気が私はとても好きなのです。」若者言葉のKYとは、その場の空気が読めないという人を非難する言葉だそうです。あたりの気分や状態を「空気」というのでしょうが、どうもこの「空気」という言葉あまりいい意味で使われたところを聞いたり、読んだりしたことは私にはありません。この地球の環境である空気が汚れていることにもよるのでしょうか。現代の人は、「悪い空気」ばかりに敏感なようです。久しぶりに、ぷーさんのコメントで、心がホッとする「空気」の使われ方を見ました。きれいな空気の流れを感じることができるぷーさんはとてもステキだと思います。
コメント
はじめまして。私は高齢者施設で相談員をしています。家に帰れば、6歳の子を一人で育てているシングルマザーです。
子供を産むまでは仕事(お金のため)としてわりきって介護をしていたように思います。今は母になり、入居者様とその息子さん、娘さんの気持ちになって、その人の生活を支えようと思うようになりました。
藤川さんの詩を読んで、自分はいい介護ができているのか?いい母親なのか?と自分に問うきっかけができました。
これからも、入居者様の瞳に私が映るように、そして、子供の瞳にもいつも私が映るように(できればいつも笑顔で・・・)頑張ります。
幸せは『仕合わせ』とも書く。
と、書かれていたのを読み、ひとつの思いが巡りました。
以前、社内で受けた講義の中で
『仕事の“仕”は仕えると読む。』といった内容があったのですが、その『仕合わせ』になぞらえて、『仕え合う』という風に考えてみました。
そう考えていくと、人が人の為に手助けや力添えをする事で、お互いが成長していき、新しい自分の発見や能力が引き出され、幸せになっていく。
独り善がりではありますが、自分の経験と藤川さんの『仕合わせ』がぴったり合った瞬間でした。
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