微笑み
「微笑み」
幸せは築きあげていくなんて
そんな大げさなことじゃなくて
ただ心の中の小さな微笑みだ。
目標でもなければ
目的でもない
ましてモノでもなく
楽園でもない。
幸せとはどんな時にでも
微笑むことができる強い心だ。
幸せがあるから
あなたは微笑むのではなく
微笑むからあなたは幸せになっていく。
二人で暮らしはじめ
あなた達のもとに届けられるものを
しっかりと見つめてみるといい。
お互いの心の中に静かに凪いでいる
輝く海のような微笑みがあれば
言葉でも
人の心でも
あなたの周りにおこる出来事でも
あなた達のもとには
幸せが届けられる。
「愛する―それはお互いを見つめあうことではなくて
いっしょに同じ方向を見つめることである」
とサン=テグジュペリは言ったけれど
見つめ合うことも忘れてはいけない。
心は分かりにくいから
相手の瞳の中に自分の微笑みがあるか
いつも見つめ合って確かめた方がいい。
いくつになっても見つめ合い
自分がどれほど相手を幸せにしているかを
いつも感じて暮らす。
幸せは築きあげていくなんて
そんな大げさなことじゃなくて
慎ましい日々の暮らしの繰り返し
その中で微笑み合うこと
そこから二人の幸せは生まれ続ける。
父はいつも母の顔を見て微笑んでいた。その柔らかな優しい「まなざし」を通して、介護を考えていきたい。このブログは、そう思って書き始めた。「お母さん、お母さん」と言いながら、父はいつも微笑みながら母を見つめていた。母は嬉しそうな顔をして、父に微笑みを返していた。父に愛され、受け入れられていると母は感じていたに違いない。自分が受けいれられているという安堵感、全てを忘れ去ってしまう中でも自分が支えられているという安心感を、母は父の微笑みの中に感じていたと思う。何もかも忘れ、なかなか世界をそのまま認知できなくなり、この世界や周りの人たちからの疎外感や自分がどうなってしまうのだろうという不安の中で生きる母にとっては、父の微笑みが唯一の救いだったと思う。
父と母の二人の間に交わされる微笑みを見ていて、人は幸せだから微笑むのではなく、微笑むからそこに幸せが生まれるのだと思うようになった。そして、そのことを詩に書いて、高校の友人の結婚式に贈った。今日掲載の詩は、その時書いた詩だ。数日前、講演で名古屋に行った折、その友人にあった。友人宅に行くと、この詩が額に入れて大切に飾ってあった。「夫婦喧嘩したときは壁に掛けたこの詩を読むんです」と奥さん。微笑みながら言っていた。友人は複雑な顔をしていたが、高校生時代、私はその友人の笑顔にどれだけ救われたことか。その友人の笑顔を見ると、なぜかいつも私はホッとしていたのを覚えている。そして、二十年ぶりの名古屋での再会。わざわざホームまで入り、私を迎えてくれた。私たちは喜びのあまり抱き合った。友人は高校の時の笑顔そのままだった。その友人に会わなかったこの二十年、お互いいろんなことがあった。でも、辛かったことも、悲しかったことも、その友人に会ってその微笑みを見て、どうでもよくなった。おれを笑顔で迎えてくれる友人がいる。とても嬉しかった。こんな経緯で、久しぶりにこの詩を思い出したというわけだ。
元気な私でもこうなのだから、崩れていく自分を微笑みながら丸ごと受け入れてくれる人が側にいることは、認知症の人にとってどれだけ幸せなことか。「桜の花が微笑みはじめる」というように微笑むとは、花が少し開くことをも意味する。春を待ちわびる地方の人々にとっては、蕾が開くことはその花が微笑んでいるように見えるのも至極当然のことである。微笑みが、喜びや幸せと共にあることは、この言葉の使われ方からも明らかである。二十年ぶりに会った友人に微笑んで迎えられたとき、私はどんな時でも独りではないと思った。私を大切に思ってくれている友人がいると嬉しくなった。友人の微笑みに私も始終微笑んでいたように思う。そして、その微笑みあう中で、私は喜びや幸せを感じたのだ。
講演中にいつも感じることがある。それは、どんなに言葉で面白いことを言っても、講演を聞いている人は笑わない時があるが、反対にどんなにつまらない話でも、私が微笑みながら話をすると、聞いている人たちは微笑んで、時には声を出して笑うときさえあるのだ。まるで鏡を見てでもいるかのように、私が微笑んで話すと講演を聞いている人たちも、微笑んで聞いていることが多いことに気がついたのだ。人の微笑みの中に、人は喜びや幸せを見つけるのかもしれない。笑ってもらおうと、いくら言葉巧みにやっても人は微笑んではくれない。自分が微笑まず、笑顔も作らずに人の微笑みや笑顔をもらおうとしてもそう易々とは手に入らないのだ。それは、とても「愛」に似ていると思う。愛をもらうために必死になっても愛を手に入れるのは難しい。それは、愛が与えるものだからだ。微笑みも愛と同じ与えるものだと思う。
父は気づいていたに違いない。幸せを求め続け、自分の心以外のどこにも幸せは見つからず、幸せは自分の心に生み出し、微笑みと共に与えるのだと気づいていたに違いない。だから、「お母さん、お母さん」と言いながら、父はいつも優しい笑顔で母を見つめていたんだと思うのだ。母が認知症になって母に寄り添う父はとても幸せそうだった。「幸せだから微笑むのではなく/微笑むから幸せになっていく。」この詩の中の言葉は、微笑みながら幸せそうな父を見て書いた。と同時に父の強さもいつも感じていた。「幸せとはどんな時にでも/微笑むことができる強い心だ。」父を見ながら、よくこんな状況で母に微笑みかけられるなあと思っていた。私がそう易々と幸せを手にできないのにはわけがあるのを、私は知っている。それは、まだ父の強さを持っていないからだ。自らは心臓病を抱え、どんな過酷な状況でも母を介護し、母に微笑みかけた父の強さが私にはまだないのだ。
◆みのこんさん、コメントありがとうございます。「小学生を対象に「認知症サポーター講座」の講師をすることになりました。そこで今回藤川さんの「大好きだよ、きよちゃん」の読み聞かせを最後に入れることにさせていただきました。」とみのこんさん。「大好きだよ、きよちゃん」を使っていただいて光栄です。小学生対象の「認知症サポーター」養成、私も見せてもらいたいぐらいです。認知症の方々を支えながら、高齢化社会を知るだけでなく、自分の老いについて、人を思いやることを子供たちは必ず学び、感じてくれると思います。分からなくても感じている認知症の人たちを、言葉はなくても心で感じている認知症の人たちを、子供たちが知識や情報ではなく、深く感じてくれることを祈っています。終わってからの報告、楽しみにしています。
コメント
はじめまして。
ゆきママと申します。
名古屋での講演会に夫が参加させてもらいました。
そして夫は「介護と子育ては似ているかもなぁ~」と言っています。
《微笑み》
繰り返し読ませて頂きました(涙)
息子が笑ってくれると、嬉しくなります。
私が笑うと、息子も安心したように笑ってくれます。
でも、毎日の生活の中で息子の瞳に「鬼」が映っていることがあります。あ~~自己嫌悪です。
そんな私に夫が‘一人の時間‘をプレゼントしてくれました!そして、リンパ整体に行ってきました。
体がほぐれると、心も軽くなりますね。
もうすぐ師走。
ますますお忙しくなると思いますが、お身体をお大切になさってご活躍下さい。
「微笑み」ってすてきだなぁと思います。
これは職場内の職員同士にも言えることがあるんです。物事をお願いするにしても、つんとした顔つきで「これお願い」と言われる時と、ちょっと微笑み「これお願い」と言われる時、受ける側としては気持ちの上で大きな違いがあります。
人間関係がぎくしゃくしてしまうことも・・・
利用者さんのご主人様が会いに来られては「おかあさん おはよう」と微笑みながら声を掛けられます。奥さまはとてもいい顔をされます。そこに流れている空気が私はとても好きなのです。
12月がそこまで来ています。
サンタクロースは来てくれるかな・・
いくつになっても楽しみです(笑)
※コメントはブログ管理者の承認制です。他の文献や発言などから引用する場合は、引用元を必ず明記してください。なお頂いたコメントは、書籍発行の際に掲載させていただく場合があります。